記憶探偵〜益田啓一郎のブログ(旧博多湾つれづれ紀行)

古写真古地図から街の歴史逸話を発掘する日々。ブラタモリ案内人等、地域の魅力発掘!まち巡りを綴ります。

戦前ニッポンの客船文化

2006年10月30日 18時35分41秒 | Weblog
夏からずっと取りかかっている仕事のひとつが、昭和10年前後に
最盛期を迎えた日本の豪華客船文化についての本の執筆・編纂で
ある。客船会社が発行したパンフレット・絵葉書・メニューなどの
出版物で構成する本なのだが、あくまでそれらの資料を中心にして
構成、執筆しなければならない為、悪戦苦闘している。

しかも一人の資料収集家のコレクションを基にとなると、一見する
と素晴らしい資料なのだが、細かくテーマや航路別などに分けて
紹介しようとすると全然必要な資料が足りない。
日本郵船などにも資料協力いただき、各地を取材して少しずつ
まとめているのだが、気が付けばもう11月になる。

納期が明確に無い仕事というのは、どうしても思い通りには進まない
ものである。急ぎの仕事優先となるのは当たり前だからだ。
それでも90%編纂が終わる段階へようやく辿り着いた。

元々は某出版社からテーマを決められたものであるが、
客船文化を調べていくうちに、日本の文化の発展や海外での日本文化
浸透に一番関係が深いのが客船である事も判った。
今でこそ飛行機で短時間の移動が当たり前だが、昭和30年代はじめ
までは客船が世界中を航路で結び、客船を介して様々な文化交流が
行われたのである。

このブログで取り上げている鳥瞰図絵師・吉田初三郎や、初三郎と
同じ年に生まれて大正モダンの象徴である竹久夢二も、日本郵船の
パンフレットやメニューなどのデザインを手掛けてハクがついて
いる。特に初三郎は日本郵船「英文日支航路案内(大正8年)」の
中で「現代の広重」と紹介され、海外にも存在を知られるように
なった。

日支航路案内を見るのは、当時上海に駐在した欧米列強国の富裕層。
当時、海を挟んだ長崎・雲仙は、上海を訪れた欧米人の避暑地と
して知られ、雲仙ホテルや九州ホテルなど、今も続く老舗ホテルが
国内における洋風ホテルの初め、テニスコートやゴルフ場なども同様。
日支航路案内で取り上げられた初三郎の鳥瞰図は英文「UNZEN」
であった。

前回紹介した初三郎「長崎」の絹本原画は、そんな雲仙への玄関口で
ある長崎港を描いたもの。わが国で最初に外国定期航路として開設
されたのも日支航路(長崎-上海)=日華連絡船であった。

(つづく)
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