「大正広重」吉田初三郎は印刷折図や絹本以外にも、写真のように全国各地の巨大な絵看板の観光鳥瞰図を多数描きました。これは宮崎県の戦前の作品の写真で「水力の國日向」と記され、初三郎も写っています(所有する初三郎踏査時ネガ資料)。
現在の何処にあったのか気になりますが、内容からすると延岡市と五ヶ瀬川など県北が中心のよう。左下に記された落款から推測するに1931(昭和6)年頃だと思われます。初三郎の宮崎県の作品で未見(印刷物になっていない)作品が1点あるのですが、これがそうなのかもしれません。Twitterでつぶやいたところ、延岡の山内先生の考察によると写真は昭和8年に宮崎市で開催された「祖国日向博覧会」会場ではないかとのこと。山内先生は岡山・高梁市に遺る初三郎「伯備沿線図絵」絹本肉筆画の補修に関わられ、延岡市の初三郎資料活用の研究など諸々ご教授いただいています。
しかし水力電気という事になると、先週公開した「木曽川と大同電力」と同じく松永安左エ門(福博電気軌道、九州電灯鉄道、東邦電力)が関係しているかも。五ヶ瀬川などの電力開発は九州送電。松永の九州電灯鉄道、麻生の九州水力電気、松方の九州電気軌道が大株主、個人で松方幸次郎・「花子とアン」嘉納伝助のモデルでおなじみになった伊藤伝右衛門・堀三太郎ら筑豊炭鉱主の名前があります。
また、吉田初三郎の活動当初からの有力後援者に小林一三(阪急電鉄、宝塚歌劇、東宝他)がいます。松永と小林は同窓で親友(岩田屋がターミナル百貨店となる際や九州鉄道=西鉄天神大牟田線の沿線開発等は小林の影響大)。小林の宣伝上手を見習ったのが松永である事を考えると面白い事になりそうな…。
宮崎県内では九州送電に反対して県内の事業者には許さんという運動が起きて、野口遵も水利権獲得のためにつくった五ヶ瀬川電力とともに反対運動を起こします。実は当初熊本の鏡に作る予定だった工場を延岡にした一因でもあります。
結果宮崎県と九州送電との間で折半という事に。ただ日本窒素-旭化成がらみって延岡は別としてそんなにあるのかどうかはわかりませんが..。