marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(338回目)憲法記念日にあたり「上の権威に従うべき・・・か」Ⅰ

2017-05-05 08:46:48 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 今回は全くのその筋の方向けか、ご興味のある方に読んでいただければと思います。難しいと思われれる方は飛ばされてください。共に考えたい問題です。
◆先の回に、アンダーラインを引いた箇所について少し考えて見たい。ここで初めての方は何のことやらかと思うかもしれませんが少し入り込んで小難しいかもしれません。しかし、あらゆる点において
◆キリストがこの地上に誕生して以来、神の業(わざ)を理解するという手段となる言葉は地上の人間にもたらされたが、そのために格闘してきた歴史を持つ国についての話です。今まで出てきた今世紀最大の神学者と言われるカール・バルト、キリスト教の牧師であり神学者であったから(彼ばかりではなくキリスト者は誰でも神がいつ何時でも神がすべてを支配たまうと考えていると思うからであるが)国家と個人もそのときの教会の問題として考えるのです。(無論、ここでは教会とは建物ではなく、生きておられる聖霊によって形成される信徒たちの群れ、つながり、キリストのからだなる教会といわれるものです。ルターがこの点につきましてもうまく説明してますが、目には見えないが霊的な有機的なつながり、今で言えば世界中のイエスを信ずる霊的なネットワークと考えるといいか。)
◆それで、掲題の内容についてはとても一回では収まるような内容ではありませんので、今回は、おそらく信徒でも誰でもが一度はどうなのかと考えてしまうことについて、考えてみたいと思います。それは、パウロの手紙、ローマ信徒への手紙第13章「上に立つ権威に従うべきです。神に由来する権威はなく・・・」という箇所です。バルトはそれも新約聖書の研究によって答えられなければならない問題として、キリストとピラトの関係として捉えました。
◆キリスト教会では礼拝の中で、使徒信条が唱えられるところがあります。「我は天地の造り主・・・。我らの主、イエス・キリストすなわちポンテオピラトの時に苦しみを受け、死にて葬られ・・・」とありますが、このピラトとキリストの関係についてです。
 バルトはこう宣べています。「キリストが死ななければならなかったのは、国法によってではなく、国法にも拘わらず、まったく別の他の方法によって政治家が自分の領域から逸れたかぎりにおいてであった。」このときの「別の方法によって」とは当時、民衆のほとんどに影響を及ぼしていたユダヤ人の法のことです。基本的な法律に対する考えは今でも当時のローマ法の成り立ちがいろいろ勉強になるように思われます。あの広大なローマ帝国を決まり事により統率を図ったということ。ところが、バルトが「新約聖書の研究によって答えられなければならない問題」として、彼は、神の国と地上の国、教会と国家、神による義と人間の義(基準としてはこれは法律にあたる)によってあると、常に考えていたわけです。(今でのすべての牧師はそうでないといけないと僕は思うし、実際そうだと信じたい。)
◆それで、ここからが課題「ローマの国家権力の代表としてピラトは、国法に従っても「この男に罪はない」と宣言したのです。対立はここで「国家と教会」ではない。むしろ国家の委託を受けたピラトは、法に従ってこの男(イエス)を赦そうとしたのです。国家の本当の姿がここに見られるとバルトは言います。キリストの罪を認めない国法にも拘わらず、結局、ピラトは心変わりをし、あるいは決定を放棄し、つまりは「国家(国法)を否定して」イエスを十字架に引き渡すのです。ここでピラトは後から見れば神の道具となって、現実の当時の法律によっても「イエスは罪無くして十字架につけられ」ということを(ただ、心情的に罪ない方が・・・ということではなく)きちんとした法律によって示されていたということです。
◆ここで、すべてのしがらみを捨てて考えて見る必要がある事を述べます。本来、国家と真の教会である事柄とは相矛盾するもの対立するものではないということです。あからさまにキリスト教云々と言わなくても本来、その形成に向けて、あるいはその正当な関係に進むべき国家の歴史は積極的な意味を持っているのではないでしょうか。バルトもそのようなことを述べています。そうして、キリスト教に無関心の人でも神の大きな動きの中で大いなる恩恵は受けているのではないでしょうか。それで・・・問題は
◆そのほとんどの民衆を無意識のうちに(烏合の衆となって賛同する心情的雰囲気、イエスが十字架上で語った「彼らは何をしているのか分からないのです」というような)ただの欲求で動く場当たり的自己肯定に、寄らば大樹の陰、勝てば官軍というような(つまり誰も責任は負わない)気分によって「国家を否定」、「自分という個人を否定」していることに気付かずに安穏と過ごしてしまうのではないかということです。
◆現政権が2020年までに改憲したいと総理が唐突に憲法記念日にテレビ放映した。僕らは、歴史認識と(そして知りえても公にしてはいけないこと)とピラトが「国家(国法)を否定」してまでのイエスが十字架に掛けられねばならなかったその隙間を常に意識し戦い続けて行かねばならないと思わされているのです。・・・続く