キリスト者作家である三浦綾子さんの「母」-小林多喜二の母の物語-の映画券が入ったので夜の部で見て来ました。「氷点」という物語で有名なキリスト者である三浦綾子さんがこの小説を書いていたのを僕は知りませんでした。「塩狩峠」という映画は学生時代見ましたけれど。僕は正直、あまり心情的気分に流されやすいと思われる、そしてそのように書かれるであろう宗教関係の小説は好きではないので読まない。むしろ、創作ではなく事実を知りたいから。小林多喜二の母セキは、小樽シオン教会で洗礼を受けて、後半その教会が映し出される。牧師からピエタ、息子キリストを膝に抱いて悲しむマリアの話を聞く。十字架上での「彼らは何をしているのか分からないのです。」というイエスの言葉を聞く。文字が読めなかった(教育を受けて来られなかった)がつたない文字で決意書のようなものを牧師に渡す。私も天国で多喜二と一緒に暮らせるだろうかと・・・。死の床で讃美かを歌いつつ天に召される「山路越えて」
◆今、「共謀罪」が「テロ等準備罪防止法」にかわり今の政権が法律を通そうとしていますが、そのためか、二度戦争を起こしてはいけないと山田火砂子監督が満を持して作成したものだと。小林多喜二の生誕地秋田県大館釈迦内というところは僕の母の故郷でもある。そして、戦時中中国、韓国の方が強制労働で亡くなった方も多く暴動花岡事件(野添憲二氏の著作がある)があったところも近い。官憲で虐殺された小林多喜二。当時の治安維持法がどうしてあれほどひどいものだったか、公明党の皆さんも反対しているのは、創価学会初代会長であられた牧口常三郎が獄死したからなのだろうと。その後、「三太郎の日記」を書いた三木清が獄死している。その他、無論、キリスト者の偉い方々も多く拘束され獄死された方もおられる。
◆政治において、過去に治安維持法というもので多くの方が言葉を無くした。この国に必要なのは正しい歴史認識の重要性であると思います。前々回からキリストがこの地上に誕生して以来、神の業(わざ)を理解するという手段となる言葉は地上の人間にもたらされたが、そのために格闘してきた歴史を持つ国においては、多くの陰も見えるのであるけれど、所詮、神が創造されし我々ひとりなのであるという地上の我々を相対的に見る思想がある。僕らも、ただ無責任な大衆側にたち、十字架につけろと叫んだ民衆側にはつかないように目覚めていたいものだ。
◆さて・・・カール・バルトの国家哲学というものを簡単に述べておきます。これは、我々がもつローマ書第13章への疑問への回答にもなるだろうか「カール・バルトとプロテスタンティズムの倫理」(加藤周一現代ヨーロッパの精神から<岩波現代文庫>p198から)
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国家と教会とは本来(注:本来です。注は僕)対立関係にはない。人間の正義、国家の真の姿は、神の正義を説く教会を正当化するはずのものである。しかし、国家が教会になることはできず、教会が国家になることはできない。国家はみずから教会になろうとする時に真の国家であることをやめ、教会はみずから国家になろうとしてその正義を権力によって強制しようとするときに教会であることをやめる。国家は権力による強制であるが教会はそうではない。「天上のエルサレムの永遠の法を地上にうちたてることは、地上の国家にできることでもないし、また、その任務でもない。」その任務は、「人間の法」をうちたてることである。それならば「人間の法」とは何か。それは「ロマン主義的または自由主義的自然法概念」に基づくものではなく、「教会が神のことばのために要求しなければならない具体的な自由の法」であるとバルトはいう。「自由の法」とは、「人間の真にあらゆる人権の」尊重である。 あらゆる人権の完全な尊重は事実上、地上のどこにも存在しないだろう。公然たる人権の侵害が始まるとき、それは「法治国家の根本的な解体」である。そればかりではない、完全で原則的な独裁制は「みずから直接に唯一の神の権力であろうとする」
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◆カール・バルトは、これに対しては断固戦わねばならないとしたのである。・・・・ 続く
◆今、「共謀罪」が「テロ等準備罪防止法」にかわり今の政権が法律を通そうとしていますが、そのためか、二度戦争を起こしてはいけないと山田火砂子監督が満を持して作成したものだと。小林多喜二の生誕地秋田県大館釈迦内というところは僕の母の故郷でもある。そして、戦時中中国、韓国の方が強制労働で亡くなった方も多く暴動花岡事件(野添憲二氏の著作がある)があったところも近い。官憲で虐殺された小林多喜二。当時の治安維持法がどうしてあれほどひどいものだったか、公明党の皆さんも反対しているのは、創価学会初代会長であられた牧口常三郎が獄死したからなのだろうと。その後、「三太郎の日記」を書いた三木清が獄死している。その他、無論、キリスト者の偉い方々も多く拘束され獄死された方もおられる。
◆政治において、過去に治安維持法というもので多くの方が言葉を無くした。この国に必要なのは正しい歴史認識の重要性であると思います。前々回からキリストがこの地上に誕生して以来、神の業(わざ)を理解するという手段となる言葉は地上の人間にもたらされたが、そのために格闘してきた歴史を持つ国においては、多くの陰も見えるのであるけれど、所詮、神が創造されし我々ひとりなのであるという地上の我々を相対的に見る思想がある。僕らも、ただ無責任な大衆側にたち、十字架につけろと叫んだ民衆側にはつかないように目覚めていたいものだ。
◆さて・・・カール・バルトの国家哲学というものを簡単に述べておきます。これは、我々がもつローマ書第13章への疑問への回答にもなるだろうか「カール・バルトとプロテスタンティズムの倫理」(加藤周一現代ヨーロッパの精神から<岩波現代文庫>p198から)
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国家と教会とは本来(注:本来です。注は僕)対立関係にはない。人間の正義、国家の真の姿は、神の正義を説く教会を正当化するはずのものである。しかし、国家が教会になることはできず、教会が国家になることはできない。国家はみずから教会になろうとする時に真の国家であることをやめ、教会はみずから国家になろうとしてその正義を権力によって強制しようとするときに教会であることをやめる。国家は権力による強制であるが教会はそうではない。「天上のエルサレムの永遠の法を地上にうちたてることは、地上の国家にできることでもないし、また、その任務でもない。」その任務は、「人間の法」をうちたてることである。それならば「人間の法」とは何か。それは「ロマン主義的または自由主義的自然法概念」に基づくものではなく、「教会が神のことばのために要求しなければならない具体的な自由の法」であるとバルトはいう。「自由の法」とは、「人間の真にあらゆる人権の」尊重である。 あらゆる人権の完全な尊重は事実上、地上のどこにも存在しないだろう。公然たる人権の侵害が始まるとき、それは「法治国家の根本的な解体」である。そればかりではない、完全で原則的な独裁制は「みずから直接に唯一の神の権力であろうとする」
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◆カール・バルトは、これに対しては断固戦わねばならないとしたのである。・・・・ 続く