marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(435回目)ノーベル文学賞を考える:肉体に引きずられる言葉(その1)

2017-10-19 05:55:10 | 日記
 カミュの『異邦人』 肉体に引きずられる言葉とはなにか。古典になりつつある実存主義哲学。これは人が肉体を持っている限り、自分の肉体の有り様を自分の言葉で捉えていくという作業(考え)。しかし、殆どの人なんかそんなことしていないものだ。結局のところそれは自分の実際の姿を見ることになるから。自分の姿など考えたくないものだし、そもそも考えるようにはできていないものなのさ。それは眼に見えている実際、その瞬間から始まるのが僕らに今にとってはすべてだから。可能性を信じて、などといいたいところだが実は君たち実態に於いてはハイレベルな次元で勝負はついているのだのだ、という声が聞こえる。実存主義を乗り越えて、だから人はこうしなくてはいけないだろうという時代の後半に入っているのだということです。
◆それで、自分の身体の有り様を言葉で捉えたとして、例えば「とにかく、太陽の暑さにはすべての物事が面倒くさくどうでもいいことなのさ・・・」というような場合。今でもそれは、小説や文学の題材になるのだろうけれど、現代は既にその言葉にすることの限界が来ているのではないかと思われる。人という物がいかなるものであるかということがますますその生理医学的に知られて解明されてきたから。その意味ということにおいて。簡単に例えると、昨夜は夜更かしをした、だから今日は午後から眠くて仕方がなかった、というような場合。これは原因と結果だと一応推論できる。それと同じようなことが、もっと人の行動を起こす内面において、本人が気がつかないまでに於いても緻密に推測がなされてきて言葉にする以前にすでに読者に結果の推論ができてしまい、文字とするまでのことがないことだろうということが人の行動の動機の表現に起こってくるということだ。文学の限界・・・これについては次回。
◆志賀直哉という作家の『城の崎にて』という小説を知っている人もいるかもしれない、僕が高校の時の国語の教科書にあった。ところでなぜ、あの日本海の小さな地方の町の温泉なのだろうか。川端康成も『雪国』で地方の雪深い田舎の温泉街にいくのだが、彼のすべての小説の底辺に流れているイメージは女性に対する男としての幻想である。すべての於いて底辺に流れる一方的な偶像であるがそれがモチーフとなって筆を書き続けている。それが幻想であり、破れた時は相手が人であるだけに、こちら側は死ななくてはいけないことになる。確かに彼は現実世界で自死した。雪国でも駒子という若い芸者に、そんなことでは早死にされますよ、言われている箇所がある。いずれ彼は一方的な幻想に破れたのである。(彼の死のうとした理由は推察がつくがかなりプライベートなこととして知られている。幻想が彼の現実より強かったということだ。有島武郎しかり。当時は情死はブームだったか、おいおい、待ってくれ、という時代があったということだ。)
◆ところで、なぜ城崎温泉なのかだが、知名度が高く知られた温泉となった歴史を調べると分かりそうだ。有馬温泉とともに江戸時代、多く賑わい流行ったと。その時代、理由はある病気に対する温泉の抗生物質の恩恵を受けるためにである。けれどこれは恥ずかしい病気でもあるらしいから調べても分からないかもしれない。つまりは江戸時代と言っても長いが、ある時期、その病気のためになくなる人は江戸の六~七割りであったということだよ。性病ね。養生訓を書いた貝原益軒も、そんな本を書いたにも拘わらず1年後にその病気で亡くなったというから、肉体の快楽に関する幻想は、この肉体の実態のつまり実存を越える力を持つとも言えるわけだ。これは笑い話ではない、2017年のこの時代にも実はネットで見ようと思えば男女の性的行為は見ることは出来るからかなのか、この梅毒と言われたこの性病はかなり増えているらしいから衛生面には気をつけよ、です。こういう身体の欲求に関わるプライベートな事柄はやはり個人の良識(良心)に属し、宗教性に関わるだろうと僕は思わされるのだ。新約聖書使徒パウロの手紙にある・・・彼らは当然の報いを受けているのだ、に近いものだったろうな。
◆『異邦人』の主人公ムルソーも結局、肉体に引きずられる言葉しか出てこなかったということだ。人が他の動物と特に異なる人としての前頭葉を働かせるということが、太陽の暑さのために面倒になったということ。よって、物理的な意味合いで思考する以前に拡散している神経系が言葉を通して、それが確実に死にゆく肉体に引きずられていたということになるのです。
◆ここでようやくブログのサブ・テーマでもある「脱出と前進」が出てくる。「脱出」とは、最終、自分の肉体からも「脱出」していくこと、その備えであり、それは常に「前進」になっているということなのである。それは、腐敗拡散していく自己の肉体に関わるすべての足かせとなっているしがらみであり、自己が本来の自己になるべくことを妨げている障害であるそのものからの「脱出」であり、僕らの人生はその途上にあり、その人が本来のその人としてあるべく成長進化への「前進」なのであると考えることが出来る訳です。そしてこれが今も人を創造されし神が、我々に帰還の備えをせよ、とのたまわっておられるように僕には聞こえて仕方がないのである。・・・ 続く