カミュの『異邦人』は、アフリカのアルジェでアラビア人を、太陽が暑かったという理由づけで(つまり、理由つけなどどうでも面倒くさいからといいのだということだが)拳銃で殺害してしまったという主人公ムルソーに、死刑になる前に司祭が告解を勧めるのだが、全くその気がなく、完全に頭にきて切れて司祭に暴力まがいのところまで言ってしまうという話であった。その司祭は無論カトリック・キリスト教のである。
◆今回の相手は夫がユダヤ人、その家系が「過越の祭」をしきたりにそって行うことに対して、嫌であったが誘われその雰囲気にこれ以上我慢できないと夜の町へ儀式途中に飛び出していく場面で終わる話である。相手がユダヤ人なので、これは本来の異邦人は非ユダヤ人であるという定義に収まる。どちらにしろ、長い歴史というもとでの心からの先理解が必要であるのだが、いずれ主人公のその宗教に対する先理解がまるでない。僕は、その宗教観が異なれば、特に他人の心の中など、まして宗教観など他人から言われる筋合いは全くない!ということは今もこの国の殆どの人の考えだろうと思う。それはそうだな・・・。まずは、少し長くなるが、この小説の主人公、道子がキレてしまうその考えを抜粋して書き出してみたい。次回、444回目から・・・。
◆その前に先んじて結論を書いてしまえば、こういう事態が起こることは聖書(彼らが信じている聖書とは、今の旧約聖書に当たるのだが)に書いてあるのです。夫であるアルがだめでしょうということになる。彼らが信じている旧約聖書には、異民族との結婚を禁じているのだから・・・というのが結論です。きっちり書かれて、異民族の妻子との絶縁を奨励した(命じている)のがエズラ記第9~10章です。彼らは、今も本気です。彼らはそういう神を信じているということで多くの困難と試練を乗り越えてそれを守り通してきたのですから。
◆それで、この主人公(おそらく著者ですが)に対して言えば、この小説の中の冒頭で、「過越の祭」の由来の聖書の箇所、旧約聖書の「出エジプト記」を書いていますが、それであるなら、聖書は、中途半端に読まないで、そして、その祭りの由来だけを書くのではなくてですね、夫の親族が皆、結婚には反対だったと書いてありますが、その理由を彼らの信じている聖書から捜して書こうとはしなかったのでしょうかねぇ。 その夫の親族には、坊さん(つまり宗教の専門家、ラビのような方もいるとすれば)尚更、彼らは、それに現在でも命を賭けているといってもいいくらいですから、真摯にこれに聞かねばなりませんという事になる。
◆小説として読む分には面白いのですが、この国と言わず、異邦人はすべて、このようなものなのだろうか、しかし、「排除」ということばが「希望の党」の今回選挙で票を落とし理由のように、言い切ってしまったら、人という生き物として喜ばしい結婚にケチをつけることになり、大衆受けしないということになる。「屋根の上のバイオリン弾き」はユダヤ人の似たような話だが、キリスト者の闘いは、実はこのような処にもあるのです。
◆『過越の祭』新潮文庫(平成3年2月25日発行)(Book off にて100円)
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20年前、アメリカ社会の自由を夢見て、あの因習的な男尊女卑の日本社会からやっと飛び出してきて、これから自分の好きなことだけをしておればよいのだ。と、夢と希望に胸を膨らませアメリカに来たものの、夫となった相手がユダヤ人、お互いだけならいいのだが親族がらみで、いやいや誘われ、「過越に祭」に参加させられる羽目になった。
それでは、そろそろ、本文から・・・先に結論書いたので少し、覚めた感じになるかもですが、この国の殆どの人は、いきなり本題聞かされても、分からないだろうよ・・・という気持ちになり、主人公(筆者)の言いたいことに、それはそうだ!と同意する人が多くいることだろうと思う。・・・ 続く
◆今回の相手は夫がユダヤ人、その家系が「過越の祭」をしきたりにそって行うことに対して、嫌であったが誘われその雰囲気にこれ以上我慢できないと夜の町へ儀式途中に飛び出していく場面で終わる話である。相手がユダヤ人なので、これは本来の異邦人は非ユダヤ人であるという定義に収まる。どちらにしろ、長い歴史というもとでの心からの先理解が必要であるのだが、いずれ主人公のその宗教に対する先理解がまるでない。僕は、その宗教観が異なれば、特に他人の心の中など、まして宗教観など他人から言われる筋合いは全くない!ということは今もこの国の殆どの人の考えだろうと思う。それはそうだな・・・。まずは、少し長くなるが、この小説の主人公、道子がキレてしまうその考えを抜粋して書き出してみたい。次回、444回目から・・・。
◆その前に先んじて結論を書いてしまえば、こういう事態が起こることは聖書(彼らが信じている聖書とは、今の旧約聖書に当たるのだが)に書いてあるのです。夫であるアルがだめでしょうということになる。彼らが信じている旧約聖書には、異民族との結婚を禁じているのだから・・・というのが結論です。きっちり書かれて、異民族の妻子との絶縁を奨励した(命じている)のがエズラ記第9~10章です。彼らは、今も本気です。彼らはそういう神を信じているということで多くの困難と試練を乗り越えてそれを守り通してきたのですから。
◆それで、この主人公(おそらく著者ですが)に対して言えば、この小説の中の冒頭で、「過越の祭」の由来の聖書の箇所、旧約聖書の「出エジプト記」を書いていますが、それであるなら、聖書は、中途半端に読まないで、そして、その祭りの由来だけを書くのではなくてですね、夫の親族が皆、結婚には反対だったと書いてありますが、その理由を彼らの信じている聖書から捜して書こうとはしなかったのでしょうかねぇ。 その夫の親族には、坊さん(つまり宗教の専門家、ラビのような方もいるとすれば)尚更、彼らは、それに現在でも命を賭けているといってもいいくらいですから、真摯にこれに聞かねばなりませんという事になる。
◆小説として読む分には面白いのですが、この国と言わず、異邦人はすべて、このようなものなのだろうか、しかし、「排除」ということばが「希望の党」の今回選挙で票を落とし理由のように、言い切ってしまったら、人という生き物として喜ばしい結婚にケチをつけることになり、大衆受けしないということになる。「屋根の上のバイオリン弾き」はユダヤ人の似たような話だが、キリスト者の闘いは、実はこのような処にもあるのです。
◆『過越の祭』新潮文庫(平成3年2月25日発行)(Book off にて100円)
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20年前、アメリカ社会の自由を夢見て、あの因習的な男尊女卑の日本社会からやっと飛び出してきて、これから自分の好きなことだけをしておればよいのだ。と、夢と希望に胸を膨らませアメリカに来たものの、夫となった相手がユダヤ人、お互いだけならいいのだが親族がらみで、いやいや誘われ、「過越に祭」に参加させられる羽目になった。
それでは、そろそろ、本文から・・・先に結論書いたので少し、覚めた感じになるかもですが、この国の殆どの人は、いきなり本題聞かされても、分からないだろうよ・・・という気持ちになり、主人公(筆者)の言いたいことに、それはそうだ!と同意する人が多くいることだろうと思う。・・・ 続く