1957年に短編集「追放と王国」が刊行され、この年彼は、ノーベル文学賞を授与された。ちなみにサルトルは、ノーベル賞を辞退している。カミュは44歳、それまでの受賞の中で最年少だった。フランスを代表するばかりでなく世界的栄光に包まれた彼は、新しい長編「最初の人間」の構想を練り、一部を書き始めていたとき、思いがけぬ交通事故によって46年と2ケ月の短い命を閉じた。(1960年1月4日のこと)
◆さて、この小説にユダヤ人が出てくるのかといえば出てこない。それは、つまり人の心情がキリスト教ベースのありように周知されてきた文化、伝統の上に、自分の母親の死に対して、みじんもそれらの人としての心情を見せないムルソー、殺人を起こすがそれは「太陽のせいだ」という彼に対しての「異邦人」なのである。
まさに異邦人であるその部分を書いてみたい。明確なのは、殺人を起こして死刑判決となるのだが、その経緯のなかでの判事と懺悔を求める司祭(御用司祭)との最後の会話なのである。判事の会話から・・・少し長いが引用する。一方向的に、イエスの言葉をどうのこうのと言い続けることに対して、例えばこのブログのように、この国の人々はどう思い、考えるのだろうか。この異邦人の状況設定は、暑いアフリカのアルジェである。
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にわかに彼(判事)は立ち上がると、〔・・・・〕書類の引き出しを開いた。そこから銀の十字架を抜き出して、ぶらぶら振りながら私(ムルソー)の方に近づいてきた。そして、普段とは違ったふるえるような声で「あなたは、これを、こいつを知ってますか?」と叫んだ。「もちろん、知ってますとも」と私は答えた。すると彼は、大層早口に、激した調子で、自分は神を信じているといい、神様がお許しならないほど罪深い人間は一人もいないが、そのためには、人間は悔悛によって子供のようになり、魂を空しくして一切を迎えうるように準備しなければならないという、彼の信念を述べたてた。彼はからだ全体を机の上に乗り出して、その十字架を、ほとんど私の真上で振り回していた。実をいうと私は彼の理屈に全然ついていけなかった。第一私はひどく暑かったし、彼の部屋には大きなハエがいて、私の顔にとまったりしたし、また、彼がおそろしくなったからだ。それと同時に少々滑稽にも認められた。というのは、せんずるところ、罪人はこのわたしなのだから。彼の方はそれでもなお語り続けた。〔・・・・〕ところが、判事は私を「さえぎり、重ねて私に訓戒を施し、すっかり立ち上がって、私が神を信ずるかと尋ねた。私は信じないと答えた。〔・・・・〕彼は、そんなことはありえない、といい、ひとは誰でも神を信じている、神に顔をそむけている人間ですらもやはり信じているのだ、といった。それが彼の信念だったし、それをしも疑わねばならぬとしたら、彼の生には意味がなくなったろう。「私の生を無意味にしたいというのですか?」と彼は大声をあげた。思うに、それは私とは何の関係もないことだし、そのことを彼にいってやった。ところが、彼は、机越しに、クリストの十字架像を私の目の前に突き出し、ヒステリックな様子で叫んでいた。「私はクリスト教徒だ。私は神に君の罪のゆるしを求めるのだ。どうして君は、クリストが君のために苦しんだことを信じずにいられよう?」〔・・・・〕私はもうんざりだった。暑さはますますひどくなって来た。いつもそうするのだが、よく話をきいていないひとから逃げだしたいと思うと、わたしは証人するふりをした。すると驚いたことには、彼は勝ち誇って、「それ見ろ、君は信じているんじゃないか。神様にお任せすると言うんだね?」といった。断固として、私はあらため違うといった。(「異邦人」第二部)
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◆伝統、文化、因習、慣習、おまけに日本仏教の伝統が成立されてきたこの国に於いて、宣教師により多くの殉教者を出しながらも受け入れて来たキリスト教の歴史の中で、1%にも満たないキリスト者以外の人々にとっては、このムルソーと同じような拒絶をするのだろうか。無論、死が近づいてもそれが、イエスを知らない人に対しては、一方向的に強制することなどは決して無いのだけれど。・・・ 続く
◆さて、この小説にユダヤ人が出てくるのかといえば出てこない。それは、つまり人の心情がキリスト教ベースのありように周知されてきた文化、伝統の上に、自分の母親の死に対して、みじんもそれらの人としての心情を見せないムルソー、殺人を起こすがそれは「太陽のせいだ」という彼に対しての「異邦人」なのである。
まさに異邦人であるその部分を書いてみたい。明確なのは、殺人を起こして死刑判決となるのだが、その経緯のなかでの判事と懺悔を求める司祭(御用司祭)との最後の会話なのである。判事の会話から・・・少し長いが引用する。一方向的に、イエスの言葉をどうのこうのと言い続けることに対して、例えばこのブログのように、この国の人々はどう思い、考えるのだろうか。この異邦人の状況設定は、暑いアフリカのアルジェである。
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にわかに彼(判事)は立ち上がると、〔・・・・〕書類の引き出しを開いた。そこから銀の十字架を抜き出して、ぶらぶら振りながら私(ムルソー)の方に近づいてきた。そして、普段とは違ったふるえるような声で「あなたは、これを、こいつを知ってますか?」と叫んだ。「もちろん、知ってますとも」と私は答えた。すると彼は、大層早口に、激した調子で、自分は神を信じているといい、神様がお許しならないほど罪深い人間は一人もいないが、そのためには、人間は悔悛によって子供のようになり、魂を空しくして一切を迎えうるように準備しなければならないという、彼の信念を述べたてた。彼はからだ全体を机の上に乗り出して、その十字架を、ほとんど私の真上で振り回していた。実をいうと私は彼の理屈に全然ついていけなかった。第一私はひどく暑かったし、彼の部屋には大きなハエがいて、私の顔にとまったりしたし、また、彼がおそろしくなったからだ。それと同時に少々滑稽にも認められた。というのは、せんずるところ、罪人はこのわたしなのだから。彼の方はそれでもなお語り続けた。〔・・・・〕ところが、判事は私を「さえぎり、重ねて私に訓戒を施し、すっかり立ち上がって、私が神を信ずるかと尋ねた。私は信じないと答えた。〔・・・・〕彼は、そんなことはありえない、といい、ひとは誰でも神を信じている、神に顔をそむけている人間ですらもやはり信じているのだ、といった。それが彼の信念だったし、それをしも疑わねばならぬとしたら、彼の生には意味がなくなったろう。「私の生を無意味にしたいというのですか?」と彼は大声をあげた。思うに、それは私とは何の関係もないことだし、そのことを彼にいってやった。ところが、彼は、机越しに、クリストの十字架像を私の目の前に突き出し、ヒステリックな様子で叫んでいた。「私はクリスト教徒だ。私は神に君の罪のゆるしを求めるのだ。どうして君は、クリストが君のために苦しんだことを信じずにいられよう?」〔・・・・〕私はもうんざりだった。暑さはますますひどくなって来た。いつもそうするのだが、よく話をきいていないひとから逃げだしたいと思うと、わたしは証人するふりをした。すると驚いたことには、彼は勝ち誇って、「それ見ろ、君は信じているんじゃないか。神様にお任せすると言うんだね?」といった。断固として、私はあらため違うといった。(「異邦人」第二部)
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◆伝統、文化、因習、慣習、おまけに日本仏教の伝統が成立されてきたこの国に於いて、宣教師により多くの殉教者を出しながらも受け入れて来たキリスト教の歴史の中で、1%にも満たないキリスト者以外の人々にとっては、このムルソーと同じような拒絶をするのだろうか。無論、死が近づいてもそれが、イエスを知らない人に対しては、一方向的に強制することなどは決して無いのだけれど。・・・ 続く