marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(442回目)この国の人々に”命の言葉”を理解してもらうには・・・(『過越の祭』米谷ふみ子を読む)

2017-10-27 06:57:13 | 日記
 結論から言えば、掲題の希望は無理である。人である自分という生き物がそういうことをおこがましく言うこと自体、「的外れ」というものである。しかし、そう成るように希望し、「祈る」とかの所作であれば大いに結構であるし、キリスト者はそれを行うことが望ましい。(あえて、”そうあるべきだ”となどということは書かない。)それを強く言えば、不完全でしかも消えていく人の言葉の強制となり、人世界の雑音がかなりしかも必ず混じってしまうからである。それは最終、神がその人になさることの範疇に入るからですねぇ。 
◆障害はここにあるのだと思うのですが、真の神の啓示によりと書けばいいいか(そもそもこれが僭越な考え方で限界なのだが)、真にイエスの言葉を伝道しようと選ばれた方達は、永遠の命を与えるイエスの言葉を伝えようとしているのであって、つまり自分の言葉で自律したイエスとの会話をし生きて行くと決断を頂く弟子達が増えてもらいたいと願うのであって、しがらみだらけの知識としてのキリスト「教」を伝えようとしているので決してないのです。 日本のかつての伝道者は、これで苦慮した、今の時代もと思いたい。キリスト「教」ではない、キリスト「道」であると話された牧師が多くおられた。(だんだん理屈ぽっくなったきたけど!)。ここが限界かと思います。
◆どの牧師さんにでもいいから尋ねて見て欲しいのですが「キリスト教を伝えようとしているのではなく、イエス・キリストを伝えようとしているのです、しかも、その今、生きている命を与えるその生きた言葉を・・・」ということは、その通りですというでしょう。そこで、こうしなければいけないとか、ああしなければいけないとか、周囲と自分のことが気に始めたらまさに、お弟子の入り口にさしかかったということかと思う。それがしがらみ・・・ああ、これが「狭き門より入れ」と言われていることなのかと理解されたらいい。
◆古典なのだが、ジョン・バニアンの『天路歴程』という本が、イギリスで書かれ、ピューリタンが発祥して自由を求め、新大陸に脱出を図ったことは、その事件を記憶に留めることが必要だと思う。それ以降の歴史がいろいろあるがそれに流されることなくです。罪深い人間はと言えばいいか、必ず以降のつまり今生きている時代の判断で過去を見ようとして、勝手に総括し分かったようになるものだが、時代が緩くよどみ易いものだから、自分という人間も含め今を生きる人間はなどという考えを無意識にも心の底に自己点検をしつつ、キリスト者は生きてるものなのだと思いたい。
◆イギリスに今も皇室の方(世界の・・・)が留学されている理由が、何故か僕の中では繋がっているんだけれど・・・。イギリスは伝統の歴史そのしがらみを法の下に断ち切った歴史をもつのです。これは、世界の歴史の中で、『法』のもとに人類の普遍性をレベルアップしようとした大変な歴史を持つ国だからと勝手に思っているのです。イギリスの首相の世界への発信のメッセージを注意されたい。「『法』のもとに」ということばが、今でもしばしば出てくる。こういう歴史を持つ国は、国が貧しくなっても廃れないだろうと思っている。
◆さて、アルバート・カミュの『異邦人』について書いてきたが、掲題の文庫本はこれも新潮文庫である。米谷は(こめたに)に読むことが、彼女が書いた表紙の絵のサインから分かる。カミュの異邦人は、アフリカ、アルジェであったけれど、これは、この国日本の女性がアメリカのユダヤ人を夫にもって、アメリカのユダ人の過越の祭の儀式に参加せざるを得なくなり、そこでまったく自分は、異邦人であることを感じて、切れてしまう・・・。それがこの小説を書く原動力ともなっていると思われるものである。いきなり、永遠の命を与える言葉・・・などと大上段に構えたブログでドン引きする方が多くいるだろうが、そういう多くの方が読めば、そうだ、理解できる! とこの国の殆どの人がそう思う小説だろう。「新潮」新人賞を受賞した・・・ 続く