タイトルに書いた「答え」は復活の時、現れた天使とイエスの言葉にある ***マタイによる福音書28章5節から10節まで***
◇・・・天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体のあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かにあなた方に伝えました。」婦人たちは恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」*******
◆マタイの福音書には、他のマルコ、ルカ、ヨハネの福音書と違い2度もそれは「ガリラヤ」である、と書かれている。しかも、天使とイエスの言葉として・・・。マルコにはマタイの天使が語った『 』の言葉だけであり、ルカには24章9節には、「・・・まだ、ガリラヤにおられたころお話になったことを思い出しなさい。・・・」と出てくるだけである。最も後に書かれたと言われるヨハネ福音書には、その場所は書かれていない。なぜなのだろう・・・。このような、聖書の内容から比べたり、どのような立場の記者がどこで、そのような相手に福音書を読んでもらおうと書いたのかを推察する研究も面白いし、それぞれの記者に思いを同期するという意味合いで深い学びができそうだ。(講談社学術文庫 荒井 献著「イエス・キリスト(上下)に比較がまとめられている」)
◆当時のガリラヤは、弟子たちの日常の生活の場であった。華々しい都会でもなんでもなかった。ただそこは、喜びの知らせが述べ伝えられ、始まった場所だった。マタイは「そこに戻りなさい」と、天使と復活したイエスに語らせているのです。2020年の今も復活したイエスは、すべての人に「あなたが、わたしを思うその場所」に、つまり「誰でもが生活する日常のひとりひとりの生活の場所」に復活しているのだ(そばにいるのだ)と語っているのですね。「気づきなさい、わたしは日常のあなたのそばによみがえって共にいるのだ」と。「あの方は、よみがえってここ(墓)にはおられない。わたし(イエス)を思うその場所に、常に変わらず復活しているのだ」と、いうことになるのです。
◆それでは、再びわたしたちは、どういうイエスか、と思い、ガリラヤで福音を述べ伝えたイエスに出会うために「聖書」を読み返すのです。つまり、彼がふたたび来られるまで、復活したイエスに会わんとする人は、福音書を読み始めるのです。そのリフレイン(繰り返し)がいつも語り掛けられているのです。***読者の方へ! どうぞ、どんな時でも特に困難に会っているときは彼の言葉を思い出して欲しい。***「わたしは、ガリラヤであなた方を待っている。そこで会えるであろう。」と ・・・Ω