(四)親愛なる兄弟に質問します。
1)一から三までの問いかけは現実的でしようか。共通の認識としていただけるでしようか。
2)この解答として教会は十字架と復活を伝えているのですが説得力があるでしようか。
例えば「信仰を語る会2や6」(これは以前に一部ブログ配信したのものです)での話でそれに応えられているでしようか。
*****以下 僕が返信しました回答です。
1)はじめに、このご質問はどういう立場の方へのお話資料でしたでしょうか。信仰の経験によりキリスト者はすでに答えをみ言葉から得ておりますので、信仰者への語りとしても信仰の入門者へというところでしょうか。小生には佐伯先生の内容がぴったりくると思いました。日本人の宗教感ということについて、日本仏教や神道や禅などにそれらの思いが表れてきていると思われますので。
2)教会は十字架と復活を伝えているが説得力があるかについてですが、これも語られる側の人がどの程度の先理解をもたれているか、によって異なってくるように思われます。イエスの言動やその後のパウロの独自の見解などは、たいそう幅が広く、深い意味がありますので、その具体性をやはり詳しくみ言葉から直接、提示、語られると、より今に生きているイエス様の言葉に触れられるように思われます。実際に人を創造された神の御業のそのノウハウがあからさまに信仰者には語られるようになったということですから。例えば小生の好きなヨハネ伝11章ですが14節。イエスは「ラザロは死んだのだ」と明言された言葉に対して、さらにはルカ伝9章7節の不思議な言葉、これはキリスト者にとって「生きる、死ぬ」とは、どういう意味を指しているのか深い示唆を与えてくれているように思います。使徒信条に語られる「生きる者と死ぬる者を裁きたまわん」。さらに、それを解明していると思われるパウロの手紙コリントの信徒への手紙Ⅰ:15章50節~58節などは、実際、人を創造された神のみ言葉の解明として我々が理解しておかなければならないことなど。
生と死、すべてを支配されるイエスが実際に復活したということは事実、人類の最終的なすべての恐れを解消するものであったし、実にそこにすべての被創造物の希望があるということですね。小生が本を上げるとすればキイェルケゴールの「死に至る病」を上げたいと思います。意図にはそぐわない回答かもしれませんが返信いたします。先生、皆様の健康が守られますよう祈ります。・・・Ω