◇何故に、キリスト教は言葉を要求し面倒臭いのだ。アラビア人を殺し、その理由が太陽だ、と言い、懺悔を促す司祭の要求にその胸ぐらをつかんで追い出し、俺は俺の人生だ、ああすっきりした と。それが、「異邦人」主人公 ムルソーの言葉だった。前にブログに掲げた松谷みよ子の芥川賞をもらっていた小説「過越の祭」を紹介したのも同様の内容だった。結婚した相手が作家でユダヤ人、アメリカに住んでも親戚一同集まり決まった宗教行事を厳かに行い、障害を持った子供もあったが故か、聖書を読み何やらその訳のわからないかったるい儀式に付き合ってられないと、彼女は夜の街に飛び出しすっきりする・・・。
◆いずれの主人公も、同調する為の先理解がないからなのであるが、まさにキリスト教という宗教も人とその歴史についての先理解が要求される。殆どの人は、キリスト教は清く、正しく、美しく?を要求しているように思い、憧れのような崇高な?イメージ、それにアカデミックな雰囲気にひかれるのだ。無論、それは間違いではないのだが、だが、間違えてはいけない、肝心なのはイエスという男は、血だらけになってボロボロになって、犯罪人の一人として呪われた十字架で死んだということなのだ。いかに僕らは周囲の他人の目を気にして生きていることだろう。今生を経て必然的に死ぬであろう肉体を持って自分の言葉として彼の言葉を聞き取らなければ、この地上に彼の血だらけの十字架が立った理由は分からない。キリストが、今宵、パラダイスに行くと言われた男は共に十字架に掛けられた、ただイエスを認めた犯罪人だった。キリストは空間に浮かんでただ、天国を指し示しているのではない、無神論(カトリックでなければ違っていただろうと僕は思うのだが)如何に関わらず我々は人間としてこの地上の不条理と戦っていかねばならないのだ・・・それが、カミュの不条理の哲学だった。
◆何故に、キリスト教は言葉を要求し面倒臭いのだ。・・・実際にこの身をもって復活するからである というのが 今の僕の答えである。この世界中にたった一人の自分という人間が、今も動いている壮大な永遠といわれる神のドラマに触れたとき誰でもがきっと驚くに違いない、僕はそう信じている。・・・