◆私たちが物事を理解するということの中には、聞く自分が前もって知られて分かって関連している内容に対して、今、相手が話されている内容が何らかのつながりがあれば分かる、ということになるのだと思います。まったく無知だったことがらに対しても、心の中で知りたいとか、疑問に思っていたという事柄に話が合えば分かったという満足につながります。ところが、まったく思ったこともない、知りたいとも思わないことがらに、実はそうなのだ、そのようになっていたのだ、と他人から言われたことには反発したくなるものです。特にこころの事柄に関係する宗教という内容に関してはです。人という生き物はその自由ということにおいて、すべて自分の思い、考えに障害となるであろうことがらを排他し前進しようとするものです。批判者は優位になる気分を持つものだからです。
◆人の「理解と納得」は、哲学用語ではアプリオリとも言いますが、先(前)理解(先に理解していたこと)、経験や学習によって覚えていたことが、改めて学んだ、学ばされた時に頭の中で関連するすることができた時、分かったという自分の意識として確認できるものです。その中には体験して身についた言葉も含まれるでしょう。経験として学ぶということです。ここで、まったく見ず知らずの外部から来る言葉に対して共感できることと、そうではないまったく排他するという気持ちが起こるのは何故なのでしょう。
◆ここで、殆どの人が共感する仏教についてはどうでしょうか。そはもともと葬式仏教ではありませんでした。この国には神仏習合といってその目指しているものは同じなのだろうと多くの人は殆ど屁理屈こねて面倒臭くすることをよいこととしていません。僕はこれを日本の国のよい点だと思っています。一点を除きですが。人が天上界のことを人の言葉であれこれと他人に対し定義し始めたときに腐敗が必ず始まると考えているからです。歴史上で海外からの政治がらみの外国のキリスト教が入って来たことによって(オランダは進んでましたから宗教にこだわらなかったから出島に来ることが赦された)、多くの殉教者がでたことは、その後、お寺に役所と同じような働きをさせ、檀家制度を作ったのはやむを得ないことだったと思います。そこで先祖の葬儀、法要も季節ごとに行われるようになり、今も夏には殆どの方が参加しています。ご先祖様を心情的に思う気持ち、その命の繋がりが今の自分の存在でもあるということは「先理解」がそのように身体に結びついているからとても強い信仰心の要となっています。
◆このような話をはじめにするのは、不条理の哲学を創設したと言われたノーベル文学賞を採られたアルバート・カミュが1947年に書いた「ペスト」という小説が新型コロナウイルスの流行で世界で140万部も売れたというニュースが流れていたからです。この小説にはペストが流行ってロックダウン(都市封鎖の自分の故郷のアルジェの町)の話がでてきます。その都市の中で、リューという医師や聖職者その他、様々な人々の思い、考えが語られていきます。ぺストという病気は14世紀に流行りヨーロッパでは三分の一の人々がその他の国々にも流行り22年間も続いたと言われた疫病で、政治、経済に多大な影響を与えた怖い病気でした。そのカミュの初期作品に「異邦人」という小説があります。・・・続く