marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(680回) (#11):聖書の中の歴史性について(触り)

2020-06-24 10:27:25 | 聖書・聖句

◆表題から・・・詳しくそんなことが分かるのか確かになぁ。でもこれがキリストの神が導かれて来たものなのだということを聖書とその現実の人の歩んだ歴史を照らし合わせるとそう思わざるを得ないというところに世界のベストセラーが読まれて来た理由でもあるのだ。

この国の僕らは本当の歴史というものを教えられていないからと僕は思っているのです。僕の町、今は取り換えられているけれど、昔みた博物館の歴史コーナーではこの地の創生に原始人の獣革パンツ一枚で獲物を追っている人物のレプリカ、竪穴とか・・・おいおいなのだったが東北の地においてもそんなことはなくて、かなり進んでいたのだな。三内丸山遺跡などのあの高い塔や土器、石器の技術など、ハイカラではないけれどかなり時間が穏やかに流れていたのだろうことが理解される。記紀以前にすでに多くの技術集団でもある渡来人が来ていたのだし。先にそんなことがすでに古い時代から起こっていたからこそ、蝦夷との境界と共に渡来人の来るやしろ(柵)を作ったのだろうと。近くの城跡展示館でも蝦夷は反乱を起こしたと一方的展示がなされていて、その理由とか古代の穏やかで当時では進んでいた暮らしとの関係を良く説明しないと片手落ちだろう。子供達も来るだろうにと一席ぶってきた。一方では縄文遺跡群を世界遺産にしようとしているのに・・・。

◆僕らは弥生時代にコメが大陸から来てたなどと教えられたが、そんなことはなくて、さらに古い米粒がC14法で東北の地に結構見つかっているのですね。北海道、東北縄文をユネスコ文化遺産に登録を目指していますが、片や僕の居るところでも今、古代蝦夷との境界と海外との貿易での柵の掘り起こしが再会している(添付写真)。西門の跡が見つかったというのだ。

◆このようなことはいつか書くとして、聖書の世界は、天地創造の世界から歴史はずうっと今も続いて流れていることが示され、直接の人が神自らの姿に似せて創造され全人類への救済の意識的介入が始まるのは選民族としてのアブラハムからなのだと聖書は教えている。歴史においてそれは言葉化された聖書という記録に残されていることになり、それは今も途切れることはないと。そして天地が終わるまで、救済の完成なるまで続いているのだということになっている訳です。契約というのはWIN:WINの関係だ。無理くりふんだくったんではなくてアブラハムはきちんとお金を払って自分のお墓を買ったし、現在も揉めているあの地においてもダビデ王はその地を相手から無理くりふんだくったのではなくてお金を払って買ったものなのだ。その契約はきちんと生きているのだというのが、イスラエル人の言い分なのである。僕はそう読めた。

◆この国やあの国の領域、この島は俺たちのものだなどというのは、いつまでさかのぼるのかなのだ、原始時代までさかのぼるのか?なのである。これもキリストが地上に来られ、人の言葉に責任を持たせ歴史の中で近代に突入してから人々が少しだけ目が開かれてきたからなのだと思うが、地上の人類は自分の首を絞めるようなことも行っているけれど、紀元前からの歴史、しかもそれが現在、生きて語り掛け将来をも語っているのは見過ごすことができないではないかということだ。コロナで世界中が負の一体感をもったようだが、昔からベストセラーによれば、疫病やバッタによる被害や地震は、「わたしが神であることを知りなさい」との警告を発していたのであったということになっている。・・・続く 次本題 


世界のベストセラーを読む(679回) (#10):創世記の最後ヨセフ物語はイエスの現われのひな型である

2020-06-24 05:52:37 | 聖書・聖句

◆礼拝での要旨は終わり表題のこと、これを少しく書いてみたい。繰り返すが、僕はここに、ルカ伝に記載の「律法、預言者の書、詩編にわたしのことについて書いてあることは必ず実現する」と言われた時代を超えたイエスの言葉を思い出すのである。それは神と言われるその方は地上の選民族を導き、そのひな型が今も全人類の救済の導きの歴史としての予型であると言うことで、それをキリスト教が地上に広まり、誰でもが読むことができる聖書に著されているということなのである。それは宗教というものの一つでしょ(ここでそう思われる方がいたらそれは誰に言っているのかと自問されると言い)ということで簡単に済まされるものではとてもないものなのである。何故なら僕らは飛び去るものなのだから。使徒たちが命をかけて宣教したという意味は、その核心に触れたから、実際にイエスの顕現に出会ったからなのであった。僕は8月が近づき終戦記念と、又、お盆の時期、教会のお墓や田舎のお墓に行ったときにいつもヨセフが異国の地から故郷へ帰還を願ったこの物語を思い出すのである。

◆ヨセフとイエスの比較を記載して見たい。是非、新旧の聖書を古本屋にでも行かれて購入し、線でも引かれてご自分で検証されて見ていただきたい。書き込みの無い汚れていない聖書は教会にあるだろうから。

ヨセフ「兄弟から憎まれた」(創37:4)→イエス「わたしとわたしの父を憎んでいる」(ヨハネ15:24)、ヨセフ「父から深く愛された」(創37:11)→「これはわたしがいつくしむ子」(マタイ3:17)、ヨセフ「兄弟にねたまれた」(創37:11)→イエス「人々が引き渡したのはねたみのためだった」(マタイ27:18)、ヨセフ「殺されようとした」(創37:20)→イエス「人々は叫びていう『十字架につけよ』(マルコ15:13)、ヨセフ「エジプトにつれて行かれた」(創37:28)→イエス「エジプトに去り・・・」(マタイ2:14)、ヨセフ「銀20枚で売られた」(創37:28)→イエス「彼らは銀30枚を支払うことにした」(マタイ26:15)、ヨセフ「誘惑されたが打ち勝った」(創39:9)→イエス「罪を他にしてすべてのこと、我らと等しく試練に遭われた」(ヘブライ人への手紙4:15)、ヨセフ「偽り訴えられた」(創39:17-18)→イエス「多くの偽善者がでたが証拠は得らなかった」(マタイ26:60)、ヨセフ「二人の罪人と共に過ごした」(創740:1-3)→イエス「二人の犯罪人が共に処刑に引かれていった」(ルカ23:32)、ヨセフ「高く揚げられ、尊ばれた」(創41:40-44)→イエス「神は彼を高く上げて、これにもろもろの名にまさる名を与えられた」(フュリピ2:9)、ヨセフ「同族を救い、異邦人を救った(創41:56-57)→イエス「もろもろの人を照らす真の光、・・・彼は自分の民のところに来たが・・・」(ヨハネ1:9,11)、ヨセフ「自分を害そうとした者たちを赦した」(創50:20)→イエス「父よ彼らを赦したまえ」(ルカ23:34)

◆以上は、福音主義での何等かの神学辞典などにも書かれているのでもっと調べられたい方がおられたら教会に行かれて牧師さんに尋ねられるといい。しかし、僕がどこまでも最終述べたいのは、他人の言葉ではなく自分の言葉でベストセラーを読むことです。答えはその中に書いてあります。イエスご自身が言われているではありませんか「私が父に願って聖霊を送るとき、それがすべてを教えてくれるであろう」と。・・・続く