◆12/14 雪と風が強くなり、今までとは違い時折のとても強い突風。庭に積んでいた石が、勝手にシンボライズにしていた石がすべて崩れた。春までそのままにしておくことにしよう。◆コロナ禍の巣ごもりで、いろいろ昔の本を読みだしたが、片付けそっちのけで、昔のぼんやりした思いが鮮明に思い出されて、歳そうおうに改めて昔のことを思い出し、まだまだ老いることはできないなと日増しに思わされている。言葉は、豊富な方がいい。しかも、使い方を覚えていて、自己の省察も早い時期から、前向きにできるようになるといい。幼少時代からの家庭での在り方ということになるのだろうけれど。僕が思うに、子供時代(中学、高校)には自分のことを考える、つまり自己省察できる言葉はできる限り、豊かな方がいいだろう。もっとも必要なのは、勉強うんぬんよりも、まず第一に大切と思うことは、それを学ぶ自分と言う生き物を省察できる言葉を持つことではないだろうか。僕などは、大学生になっても”自分とは何ぞや”などと考え、暗かったのだから・・・。◆掲題の『「自分で考える」ということ』と書いたのは。澤瀉久敬(おもだかひさゆき)という方の講演をまとめた角川文庫本(当時180円なり)の表題である。自分探しの中で学生時代読んだが、この度、本棚から見つけたが昭和54年6月30日30版発行となっててずいぶん古いが、そのあまりに当たり前のことを人は殆ど自覚していないので、今更ながら、外山の「思考の整理学」などより大いに宣伝して、多くの人に読んで欲しいものと思った次第。絶版になっているかな?・・・覚醒しますよ!!
◆内村鑑三の「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」は、多くの他国の言語に訳されて世界で読まれていた。内村が知らずに訳された言語も・・・アメリカ、ドイツ、イギリス、フランス、スゥエーデン、フィンランド、デンマーク、ロシア、オランダ・・・。文庫本で読めるだろうが、僕の持っているのは古くてハードカバー。昔、教会のかつての教会文庫の書籍を整理処分する際、いただいたもの。だいぶ古く、白鳳社というところから昭和49年5月20日第2刷発行、泰斗、鈴木範久 訳で出されたものである。それが、実家の書棚の本を整理しようとして再読しはじめ、改めていろいろ思わされ、解説、索引もあり、しばし、当時の思いに浸り、涙した次第。あのシュバイッアーや日本に来らてICUで教鞭をとられた、神学者のE・ブルンナーも読んでいたとのことである。◆この今回のキリスト教国アメリカでの混乱につき、読むと注釈や訳者の解説、内村の年譜が書かれていて参考になりいろいろ教えられたこと多かった。特にこの国の信仰心。2019年、コロナ禍と共にアメリカ合衆国の大統領選で、共和党から、今また民主党になったが、今までのアメリカらしさからがらりと変わった強権、混乱、方針転換の混乱のなか、実は、何ら当時とその根は変わってはいなかったのではないかと思わされた。当時、内村はこの日本をも、神の宣教の場として望まれておられるのだと、自国を誇りにさえ思うのであった。そして祖母のもたれていた信仰心を時折、思い起こす。◆イエスはこの世の完成として来たのであって、決して他宗教を排他するべく神から遣わされたのではないと言う。最も優れたキリスト者は仏教とか儒教の精髄を決して捨ててはいなのであるというのである。しかし、光と闇、生と死との区別の徹底において、キリスト教がもっともすぐれいるというのであった。当時のアメリカにおける宗教界の喧騒から、自分は決してキリスト教の職業的な牧師を心から嫌ったのでした。◆僕は、イエスの言葉をこの国へ宣教すべく人々は、この内村の本が必読の書であると深く思ったのです。・・・おわり