marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(767回) 誰も他人が代わって死にはしない

2020-12-30 22:59:52 | 日記

◆イエスが「自分を愛する如く隣人を愛せ」と言い、他の箇所では「自分の命を得ようとする者はそれを失い・・・」と言っている、その「自分」とは、人が誰でも自分の中に愛する自己という自分と、排他する自分というものがある、ということを言っているように思われる。前者は神が愛したもう真の生命ある核であり、後者は動物的としての先祖伝来の欠陥を引きずった肉なる自分ということ、と考えてよさそうだ。遺伝的に知能優秀なDNAであれば、後者としても欠陥を引きずるということがなく、社会に大いに貢献するだろうが、多くの後者は、より肉体的努力が必要となるだろうということだ。◆しかし、イエスが言わんとしたことは、そのそれぞれの多様化の中の劣っているであろう部分を、病人を救いに来た、などといっているわけでは無論ない。そういうより優秀な人をもっとこの世に作りましょうなどと言っているのでは無論ない。誰でもが今生においては朽ち行く肉体を持ち、それ(肉)に関与する(人は誰でもが関わることでありながら考えもしないのだが)肉体が消滅しても最後に「生きるか」「死ぬか」に係わる「霊」、そのことなのである。◆たとえて言えば、神の霊をもって生きる我々が、それをラジオの電波とすれば、受ける受像機としての我々の肉体が、実に多くの欠陥をもって生まれて来てしまっている、うまくチューニングされ電波をきちんと受け止められなくなってしまっている、受像の欠点があるがゆえにかなりの雑音や悪い電波(悪霊)をも受けてしまっているということになるのであろうと。したがって、まずは自分の核となる真の自分と言う核「G」を持ち、点検し、その受像を正しく受けるべくチューニングをし「自分の(G)」を毎朝、点検再生することが必要であるということだ。◆これから言えば、イエスの言葉はこう聞こえないだろうか。神が自分を愛されるが故に、自分の中の、神の霊を受けるにふさわしい自分となるべくその障害となる自分を憎む、生まれつきの肉なる汚れも生涯をも憎み、捨てる、そして新たに生まれ、神の霊(聖霊)を受けつつ歩み、絶えずそれに努め、更新されていく。そして、永遠の命に入るべくこの地上で共に歩む、本来、自分を愛するとはこういうことなのであると。・・・続く