◆「自分」についてというのは、誰しにも関わるものです。今生に一人しかいないのですから。そして、人生は一度しかないのですから。使徒パウロは「自分の救いのために励みなさい」と手紙に激励します。ここで、キリスト教会に行って、いきなり「自分を捨てて、イエス様に従いましょう」などと、簡単に話される牧師さんがいたら、深みのない浅薄な経験しか持たれたいない方だと思ってまちがいありません。先のブログのとおり、そんなに簡単な話ではないのです。後のブログで書きたいのですが、イエスの言葉は多層化した霊界からの言葉もあると思われるからです。◆相矛盾するようなイエスの言葉について、実際に多くの書物が書かれてきたと言って過言ではないのですが、あまり考えもせず、肉の次元での我々の言葉でイエスの言葉をそのまま語ると大やけどする言葉もあるように思われます。◆その「自分」に、選択のできない肉なる、つまり人も生き物としての生殖行為で、この世に誕生してきたという自分がいます。これは選択できないが故に、こんな境遇に生まれてなんだという物語も多く書かれるのですが、それと同時に、日々、新しくなりたいという自分との格闘をしている人も多くいるのではないでしょうか。そこでは、肉体に備わった限界のある能力を土台としての学習として叱咤激励して頑張る訳です。スポーツが、肉体の限界力を克服しようとしてアスリートが戦うところに感動が生まれるのは、こういう肉なる人と言う生き物の能力への限界に挑戦しようとするからでしょう。◆それは、キリスト教以外の宗教の修行という行為にも現れています。しかし、ここでイエスが語るのは、「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われていることです。いわんとすることは、誰でもが生き物として生まれ、生き、死んでいく人というものが、神の創造では本来、永遠の命の元へ帰るべき存在であり、その格闘が個人の中で行われているということ。古きは過ぎ去り、新しく生まれる、つまりは肉において生まれたままでは、神の国へは入れないということを、入るべきその人の「霊的核=本来の真の自分」に肉を脱ぎ捨て、霊なる新しき人に生まれ変わって、永遠の世界に入っていくということを述べているのです。それを可能にしたのが、イエスの十字架を信じることであると聖書は述べるのです。・・・続く