marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(766回) 基本としては真の”自分”という人間の肯定化

2020-12-29 18:57:28 | 日記

◆「自分」についてというのは、誰しにも関わるものです。今生に一人しかいないのですから。そして、人生は一度しかないのですから。使徒パウロは「自分の救いのために励みなさい」と手紙に激励します。ここで、キリスト教会に行って、いきなり「自分を捨てて、イエス様に従いましょう」などと、簡単に話される牧師さんがいたら、深みのない浅薄な経験しか持たれたいない方だと思ってまちがいありません。先のブログのとおり、そんなに簡単な話ではないのです。後のブログで書きたいのですが、イエスの言葉は多層化した霊界からの言葉もあると思われるからです。◆相矛盾するようなイエスの言葉について、実際に多くの書物が書かれてきたと言って過言ではないのですが、あまり考えもせず、肉の次元での我々の言葉でイエスの言葉をそのまま語ると大やけどする言葉もあるように思われます。◆その「自分」に、選択のできない肉なる、つまり人も生き物としての生殖行為で、この世に誕生してきたという自分がいます。これは選択できないが故に、こんな境遇に生まれてなんだという物語も多く書かれるのですが、それと同時に、日々、新しくなりたいという自分との格闘をしている人も多くいるのではないでしょうか。そこでは、肉体に備わった限界のある能力を土台としての学習として叱咤激励して頑張る訳です。スポーツが、肉体の限界力を克服しようとしてアスリートが戦うところに感動が生まれるのは、こういう肉なる人と言う生き物の能力への限界に挑戦しようとするからでしょう。◆それは、キリスト教以外の宗教の修行という行為にも現れています。しかし、ここでイエスが語るのは、「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われていることです。いわんとすることは、誰でもが生き物として生まれ、生き、死んでいく人というものが、神の創造では本来、永遠の命の元へ帰るべき存在であり、その格闘が個人の中で行われているということ。古きは過ぎ去り、新しく生まれる、つまりは肉において生まれたままでは、神の国へは入れないということを、入るべきその人の「霊的核=本来の真の自分」に肉を脱ぎ捨て、霊なる新しき人に生まれ変わって、永遠の世界に入っていくということを述べているのです。それを可能にしたのが、イエスの十字架を信じることであると聖書は述べるのです。・・・続く

 

 


世界のベストセラーを読む(765回) 自分を愛するようにあなたの隣人も:そもそも「自分」とは?

2020-12-29 13:20:00 | 日記

◆多くの人に「自分の言葉」で「世界のベストセラー」聖書を読んで欲しいと思っている僕にとって、そもそも「自分とは何ぞや」というところから、つまずいていたわけです。多くの人が、そうだろうが、第一、生まれたままで疑問にも思わない人は、そのままの自分で、イエスの言葉を読もうとすると拒絶するか、ヤケドするのではないだろうか(これは僕の体験からで、そうでない人もいます)。自分が大切と思っている「自分」、「霊」、「生きている者」、「死んでいる者」・・・との言葉は、第一生まれたままの人には理解できにくい。◆今回、イエスの語られた「自分」について、何が「自分」として見えてくるか考えてみてください。どの戒めがもっとも大切かとパリサイ人に問われたイエスは二つのことを答えられた。この二つに律法全体と預言者(予言の書)のすべてが掛かっていると。『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、あなたの主なる神を愛せよ。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。』(マタイ伝22:37~39)◆そして他の箇所でこうも言われているのです。一粒の麦の例えの後にこう言われた。『自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。』(ヨハネ伝12:25)◆ここで疑問がおこらないでしょうか。「自分を愛せ」と言われ、「自分の命を憎め」とも言われているのです。捨てる「自分」と神の望まれる「自分」・・・。魂の核となっている=真の命の核、今生においては神の見えないが霊の流れ、その永遠の命につながる真の自分、そのシステムに載る核(「G」)の発見は、多くの人が望んでいるものなのではないでしょうか。『だれでも新しく生まれなければ神の国を見ることはできない。』(ヨハネ伝3:3b)・・・Ω


世界のベストセラーを読む(764回) シンボライズされた自己の「G」のありか

2020-12-29 12:09:15 | 日記

 ◆シンボライズして石積みのその「G」も、「自分とは何か」とか、『「自分で考える」ということ』とか、『「わかる」とはどういうことか』、などという本を昔、読んできて今更、また巣ごもりの中、感心しているのは、つまるところ、自分は阿保だったなぁ、という自覚が発見が心底にあったからなのです。それに時折起こるなぜか分からぬ恐怖感。それを留める自分の核が無い。動かぬ自分の核がない。それは、言葉で納得することが優先していることがらではなく、詰まるところ、自分の一生一度きりの肉体をとおしての体験や心労?を通しての会得、それは最終、自己の言葉にまとめられるわけですが、それも固定されるものではなく、次のステップへの足掛かりの踏み台となるべく言葉を得るためだと言えますけれど、その核の再確認の維持だったと。ですから、今更ながら、当たり前のことを書かれていて昔の本の再読で、当たり前のことと思ってそのこと自体が、そもそも人と言うのは、分かっていなのだなぁとしきりに思わされているところです。◆そこで、命をあらしめている創造の神をとらまえて、キリスト教では逆に神にとらまえられてと言いますが、自分の存在の意味とその不安の解消の答えをなんとか得たいものだとしきりに思っていたのです。この自分の核、思考の原点は、できる限り歳をとって雑音で考えが書き乱される前の若いころに見つけておくことが大切かと思われます。僧侶が座禅を起こない、キリスト教信者が行う早朝の祈りにおける、仏や神からの自己の中の「霊的受容器」の整え、確認。その頭脳の中のスゥイートスポットと呼ばれる核は、僕の場合、前頭葉と松果体の間に存在するように感じています。いずれ、身体全体から言えば、決して固定化されは魂の「G」のありどころです。その核心を得ると、わずかな静かな時間でも霊の所在と会話し、普遍的な永遠に続く魂の流れに乗るように思われ心が落ち着くのです。


☕ コロナ禍はどうして起こったのだろう

2020-12-29 11:21:24 | 日記

◆外的環境によって「心が揺らぐ」ということを先に書いた。自然界では殆ど外的作用に由来する。強風や地震などは物理的作用だから。目で確認できること以外では、自然に人が手を加えることによる善し、悪しである。里山や海の良い牡蠣養殖のために海に流れでる川の山に木を植えるという石巻の畠山というあの長靴白ひげ爺さんなどは、実に人が自然の一部であり、自然を知って管理しなければいけないことを強烈に教えてくれているものである。◆海を守るために山に木を植える? 何故なのだろうと、思っていたが、山から流れる川の真水、それには山の木々の自然の芙蓉な葉酸が含まれているからなのだということ知った。人為的に山を開発し、木々を伐採し、人工肥料などで里山を作ろうとしても駄目なのだということ。それは、高度成長期の前のオリンピックあたりの事だったという。◆採れた牡蠣を開くと赤いのだ。まるで血を流しているように・・・。人も生き物から赤い汁がでると血のように思い、いささか驚く。(これは赤潮が原因だ)。この働きは海外にも知られた。そして、毎年、山に木が植えることが行われている。震災以降も、石巻ではおいしい牡蠣が採れている。◆僕の文字としての思考の基となる原点は、次にある。「神は自分の像(かたち)に人を創造した。神の像にこれを創造した。・・・神は言った。『見よ、わたしは全地の面にある、種をつけるすべての草と種をつける果実のなるすべての木とをあなた方に与えた。それはあなたがたの食物となろう。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這う生命あるすべてのものにも、すべての緑の草を食物として与えた。』するとそうなった。神が自ら造ったすべてのものを見ると、はたして、それはきわめてよかった。」(創世記1:27~31)◆人はあまりに神から遠く離れてしまった。・・・「あなたが大地に戻るまで、あなたは顔に汗して食物を得ることになろう。あなたは大地から取られたのである。あなたは塵だから、塵に戻る。」(創世記3:19)・・・続く

 


☕ 嘘のように雪が融けたので石を積む

2020-12-29 10:01:08 | 日記

 ◆県内で雪の多い地方のニュースが毎日のように流れ、雪下ろしで亡くなる人も出たという日曜日から今日にかけて、こちら海がわに面する地域は、嘘のように雪が解けて、青空が出て、すがすがしい太陽がまぶしかった。雪が降り続いて、庭の自分勝手な自分自身の存在の重心のイメージのシンボライズした石積みを行った。ハシビロコウという鳥の頭に似た石が面白い。◆その頭は20kgくらいはあるが、積むだけであれば難しくはなく、そっと一点でも載せて収まれば、それを繰り返し積む。実のところ、実に不安定ではあるが載せてしまうと重いので多少の事では崩れない。地震や風の強さの大まかな自然を感じる造形、とかなんとか勝手に思い込んでいる。◆といっても自分としては哲学的・・・、それは、自分の存在の土台となる魂の重心「G」というものを思考する為のシンボルライズしたものなのだ。その「G」が少なくともすべての石の重心の地面に対する垂直線が、下方にそろっているからバランスが保たれているのであって、それが力学的環境の変動によって、すぐにでも崩れてしまうのだ。◆僕らの日常の心のあり方も同じではないだろうか。従って、毎朝起床して、静かな時間、体調を点検するとともに、その自分の中の土台となる「G」を確認することから一日が始まるのである。それは、キリスト者であれば朝の祈りの土台確認であろうし、僧侶であれば早朝の座禅とも言えるだろう。いずれ、心も肉体も疲労していく一日にあって、心の再生となる土台確認、それは結局、肉体が消滅してもその芯となる魂の行き所のレールに乗ろうとすることに他ならないのだが。◆あのデカルトさんによるとそれは、脳の「松果体」というところにあると、昔、図入りで訳を読んだことがある。・・・続く