◆静岡熱海の災害には心を痛めます。コロナ災害もそうですが世界を見渡してみれば、多くの自然災害も多発しています。地上の人類は、何事かを改めて心していかねばいけないか、などと又、先のブログ依頼、小難しいことを考えておりました。このような世界の現状でも答えを持っている人がいるのですね。お近くのキリスト教会をお尋ねになって、今ひとつそれらの考えをどなたかにだずねて見た下さい。何らかの答えが返ってくると思います。お求めのドンピシャの返答ではないかも知れませんが、そこの誰でもが答えは持っているのですから不思議です。
◆あの宗教改革のルターは、「宗教は人間がつくるものである。信仰は神が与えるものである。」と言ったそうです。この地上には宗教としてのジャンルとしてキリスト教も人間世界の区分としては、その一種となるのでしょうが、いやいや、飛び抜けて人の言葉で種別できるような固定化されるものではないな、としきりに思わされています。人が言葉で理解し、固定化し言語化するという行為は、すでに人間の意識化に納めて過去化していることに他ならない。決してそういうものではないな、と。とすれば、人は生きているその、「今」という事実は、「霊」があり、この肉体にあらしめているという、殆ど人が普段考えもしない、領域のことも日本のお盆が近くになって、今一度、深く考えてみないといけないものと思わされています。
◆この間、ずうーっと、旧約聖書などに関する本を読んでいたのです。旧約聖書はいきなり読んでも分からないですよね。つまるところ、神が生きて存在していることを知らしめるために選民族をしてその歴史をとおして、示されてきた、とまとめられるかも知れませんが。そして、時代が下り、キリストを誕生させ、被創造物の救済にその秘密を露わにされたという、そしてそれは現在も続いているという、さらには遺されている時間は、そんなに多くはなくなってきたというところまでは、世界の状況を見て、思わされるところです。
◆旧約聖書を読むと、誰が書いて、編集したのか、確かに著名が現されているのは分かるが、編集の手が加えられている。時代がとんでも、同じフレーズが書かれている。預言(予言ではない神に与えられた言葉)でも、事後になって書かれたことは確かにあろうけれど、なぜ、それを遺そうとしているのか・・・世界の至るところに遺される古代の宗教においても唯一の天地創造の神に集約されてきたのか・・・そのような過程を経なければ、自分の似姿に創造された最高傑作として愛された地上の人々の救済は達成されないだろうということが、何とはなく理解されてくる・・・彼らは、今も(昔から)確かに存在していますね。しかし、キリストの十字架は確かにこの地上に建てられていたのだ、と理解するところからの出発でないと足下をすくわれるかもしれませんね。