marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その17)狭き門より入れ・・・確かに狭いなぁ

2025-02-13 21:50:45 | 日記

 ハードカバーです(古い口語訳です)。これ以降、数回、訳の言葉のいい回しは変わっています。フランシスコ訳とか、丁寧な言い回しの『いのちのみことば社』もあります。リビングバイブルというもっと読みやすいものもありますけれど、文献的な学びを云々するわけではないので、まずはスタンダードなところで話してますが書店では見かけないでしょう。新約のみの持ち出しやすい、英語と併記で横書きで読みやすいものです。

これはいつ手にいれたのか、僕の人生の半世紀以上も前のもの。裏表紙に値段が書かれていないので、古本屋の持ってけコーナーか、仕事で出張のときのホテル備えのものを頂いたか、その時は聖書と同様、仏教書も同じようにおかれてましたね。

ただ、実家にもあったのでこれお話してますが、書店では同様に最新のどの教会でも最も採用されているカトリックとの共訳の新共同訳がありますから、購入されるならそれがお勧めです。何回か以前のブログで写真掲載しています。無論、普段はそれを読んでます。

 このギデオン版の前書きには、世界の言葉で(この時点で)1400もの言葉で訳されて、ギデオン協会がホテルなどに寄贈していると英語で解説が書かれ、それらの聖書の一部が各国言語の文字で掲載されている。まさに聖書は世界でもっとも読まれている本であるということになる。

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先のハンディーの小型版は古本屋でもってけコーナーのものだったかな、家に2冊ほどあったけど、それは勤務時机に入れておいて昼休みに読んでました。線引いて。同室の部下は何読んでんだろうと思った居ただろうけれど、退職する解き彼にあげてきた。

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『求めよ、さらば与えられん。探せよ、さらば見いださん。門をたたけ、されば開かれん。全て求める者は与えられ、探す者は見いだし、門を叩く者は開かれるであろう。』 誰もが、どこかで聞いたことがある言葉ではないかと思います。

つまるところ、求め、探し、(教えのため)門を叩く者であること。先に書いたように使徒言行録にあるフィリポに出会い、聖書イザヤ書に書いてあることは誰のことかと尋ね、解き明かされて、書かれている人がイエスのことだと言われ、信じて、洗礼を受けたエチオピア人のように、さらには天使に受胎宣告されたマリアが、一体なんのことかと思案したように・・・求める思いと自分の言葉で考えることが第一に必要ということですね。

彼イエスが言います。『聖霊を送ります。求め続けるならば必ず解き明かしてくださるだろう』と・・・


(その16)異邦人が仲間入りするために:後のものが先になり・・・

2025-02-13 09:36:26 | 日記

 初めに、実は先の「使徒信条」というのも語ろうしてきた僕の方針からは相応しくない。というより既に、上から目線で何か嫌と感じている人がいると思う。

というのは、すでに未信者からクリスチャンは何を信じているのか、と問われた時の返答(自己認識も含めて)が、それまでの総仕上げのように2世紀頃にローマで作成されたのが始まりのもの。正にそれだから「使徒の信条」というのだけれど、ここに総括された人の解釈の言葉が入り込んでますね。

デリケートなことだけれど、異邦人にとっては上から目線になっているのは、好ましくないのです。書いた僕がいうのも何だが、あまりこの総括的信条は好きではない。もう信じた人の言葉になってしまっているからね。

ステパノは、神の今までの歴史を了知しているはずの同胞の救いの為に、イエスが来られて、まさにそれが命ある、今、生きている神の働きであると滔々と述べたのだが(使徒言行録7章)、僕らが旧約を知ろうとする時は、彼の話は知識としてはいいのだが、新約聖書の出来事を総じてまとめるのは、よくないと思っているのです。父なる神様目線になってしまうと感じるからね。

すでにそれは、福音書以降の手紙に何度もなんども、同胞や異邦人に語られていることだから。彼(イエス)は今も語っているから。人の歴史上解釈されてきた人の言葉の介在物はそもそも不要と思っているのです。よって新約は個人が福音書を読みこなすしかないと言えるです。(本来、聖書はすべて)聖書のみ、そのものを自分の言葉で読むことです。

当然、疑問が沢山でてきます。それから、調べること。見開きに引照付きもあるし、『いのちのみことば社の引照付き』のように、書かれた場所、時代、記者、背景などが解説された聖書もあるので、疑問が出てきたところでそこを調べて見る、という順番。常に順番は先に自分にあるということ。

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ここでややこしい考えが浮かぶのです。これも哲学ジャンルに向かって行くのですが、そもそも人が理解し、判断する『自分』とは、その判断する基準は?、何を基準に自分の位置、基軸を何と考えているのか、というような哲学が、実際あって長い歴史を形成してきた訳です。西欧哲学のほとんどがそれだったと言えるくらい、人間とは何か・・・?

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僕ら異邦人が仲間入りするために・・・異邦人とは天地創造の以来、古来から命をつないできたご先祖の神が創造したその律法や預言者らのいわれを語り継いできた伝統を持たない者らのことでした。

しかし、神はご自身の似姿に創造した人、そのいわれ(神の秘められたご計画)を信じた人々を救済しようと、異邦人、つまり全人類を救おうと秘儀を開示されたこと。それがイエス・キリストに繋がっていることで、彼は今も生きており、地上へは信じる者に聖霊を送って理解の手助けをしているということになっているのですね。

そこでイエスは、信じた人々に短い祈りを教えられた。それは、『主の祈り』と呼ばれるものです。使徒信条のように個人の意見に反して見解をごたごた述べないので、是非、ネットでご覧ください。

地球の裏側の4万7千以上もの人が亡くなったガザとイスラエルの戦争も、ネットやニュースが今のようにならなければ、知らないことでした。私は生きて働いて歴史を動かしていると神は宣い、人々に無関心であることを甚だしく警告していると思うのは僕だけだろうか。

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『言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなた方には理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来るとあなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなた方に告げるからである。』(ヨハネ伝16章12-13節) これは生前、イエスが語った言葉でした。・・・