marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その18)異邦人たるこの国の僕らが読むべき前に最も注意すべきこと。

2025-02-14 19:44:38 | 日記

 この国の宗教性は、殆ど他力本願的な、お任せ宗教であるように思われますね。それも調べるとどうも、大陸において西から東へと伝搬してきたキリスト教の教えが大衆向けに広がりつつあった仏教に影響を与え、釈迦が苦行した上座仏教から民衆への大乗仏教へと変わって受け入れやすく他力になったらしいのだけれど・・・。

『主の御名を呼ぶものは皆救われる(これは聖書の言葉、ヨエル書他)』・・・日本では『南無阿弥陀佛をひたすら唱えなさい』と。老若男女に受け入れられ大ヒット。実家のお寺は真言宗にもかかわらずこの大きな歴史ある石碑も一本立っている。

浄土真宗の親鸞は漢語でマタイ伝を読んでいたらしいし、非常にキリスト教に近い教えだと言われる理由。坊さんは髪の毛剃らんし、仏像は方便にすぎない、本願(信仰)が第一なのであると、この辺はキリスト教由来のよう。

また、古来の神道は、非常にユダヤ教に近い一神教であったらしいから、大陸から伝搬してきた唯一神が、神道になったらしい話がある。あの精神分析フロイトが書いた『モーセと一神教』も面白くて、エジプト王が突然、太陽神を信ずるようになる宗教改革に不満を持った当時の祭司らのどさくさにモーゼは、エジプト脱出を決行した話もあり、なるほどあり得る話だと。

こちらは思いつきだが、それが離散したイスラエル人が太陽の昇る東に向かってその後、時代を経て日本まで到達したんで天照大神(太陽神)にまつられている、とか。シナイ山でモーゼが山から降りてこないのでアロンが代わりに金の牛を作ったとか、それが東に向かって途中で牛がインドでは神になっているとか???(後半は僕の思いつき)

日本では生きている人が言葉で死後のことやそれから派生する哲学などというものが定着しないものだから、少し高尚な教えが来ると、それに言葉を挟むなどあってはならないと、特に神などという方が来られると恐れ多くもほとんど自己を喪失したようになる。

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ここでお話したい注意すべき大切なこと。自己をしっかり持って読まないとこの言葉を素直に受け入れると危ない。聖書をよ読むと次のイエスの言葉に出くわす。とてもカルトが好きな言葉なのである。わたしが手引きしましょうと悪魔がほほ笑む。

『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私にしたがって来なさい。自分の命を救おうと思うものはそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見出すであろう。』(マタイ伝:16章24-25節)

聖書を自分の言葉で読むときに、いつ、誰がだれに語っているのかを立ち止まって考えることがとても重要なのである。

読むのは自分なのであるが、捨てる自分とはなにか、一体自分を捨てたら何が残るのか。というのは・・・

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イエスは最も大切な教えとして次の言葉も言われたのである。

心を尽くし、精神を尽くし、あなたの主なる神を愛しなさい。自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。』と。

さて、愛する自分とは何なのか? 自分を捨てては隣人をも愛せないではないか・・・などなど。

一体、自分の何を捨て、自分を愛すればいいのか。地上に生を受け、今、生きていると言われる神の言葉を読む私とは何か?

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この自分とは、本当の自分にまとわりつく様々な障害をすっきり取り除いて、本当の真の自分になることではないのかなどと思ったりするのだが・・・。だから、当初から述べているように、神の言葉を読む自分をしっかり持って、(ここでも自分という人を追求する哲学がある。それがボケ防止で読み始めたハイデガーの『存在と時間』であるし、彼の師のフッサールの現象学なのであった)。

最終、神と私の会話で始終すべきであり介在物は参考程度にすることなのである。・・・