marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その22)世界のベストセラーを読むときに異邦人の僕らが考えておくべき事!

2025-02-22 16:04:59 | 日記

 素人であり、なおかつ異邦人である僕らが、普段の生活において恐れ多くも天地創造界の歴史が書かれてきたと言われる一読ではさっぱり分からない世界のあらゆる言語に訳されている聖書をものにするには、多くの壁があるようにも思われるが、不思議にすとんと信じて生涯をかけて信仰を貫き、生涯を終える人もおられることをどう思えばいいのか。

聖書の言葉などはいつも上から目線の言いようになってしまうのは、普段、僕らが安穏と考えている事柄の基になることの数段上の総括的な言葉をつかみ取ったという思いにさせられるからであって、しかも、それは決してシェアーできない個人的な負の体験を含んだ事柄を消化したい思いが、その人の心の底に存在しているからであると思われる。

誰でも、個人的体験から始まるのだ。

だから、どんな高尚なキリスト教神学者であっても、始まりはその方(イエス)との出会いであるけれども、その先駆けには先の個人的体験がその神学の基底に眠っているものだ。

しかもその場面の多くは喜びであることは少なく、それは彼が自分を含めた人の罪と呼ばれる欠陥が、あらゆる不幸をもたらしているがゆえに十字架にかかられ、その身に負ったという考えが暫時深められ、命ある人類へ広がるにつれ、その出会いが『自分』(今、生きている人間として)としての有機的に彼(イエス)の思いに投影するのだ考えられる。

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つまり、相矛盾するように読めるイエスの『自分』という言葉について、先に僕ら異邦人は特に、宗教抜きに考える哲学が起こってきたわけなのであったが、イエスがもっとも大切な教えは何かと問われた時、『全力で神を愛し、自分を愛するように他者を愛せ』と言われたこと。

さらに『自分を捨て。我に従え』と言われた言葉が、矛盾する言葉ではなく、今生で生きつつあるのは、次の世界に向かって、あらゆるDNAからの霊の引きずりや、思考への様々な雑音を捨てて(自分を真に愛することは、不浄な自分を捨てることを心がけよ!ということか)。

天に昇られるイエスがたまわる霊、『聖霊』に繋がっていなさいとの命を心がけるようにと言わんとしたものであろう。

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先のブログに『自分とは何か?』と書いた。生まれそのままの僕らは、突き放して自分自身を考えたりしない。ここで異邦人でない彼ら、つまり先祖伝来の神の選民族としての謂れがしみ込んでいる彼らとは違い、自分自身を客観的視点、対象物として考えざるをえない異邦人のユダヤ人以外の僕らは、『自分の根』とは何か?をそもそも考えなければならないのであった。

マタイ伝13章:6節『日が上ると、自分の根がないために枯れてしまった。』

自分の根、自分とは誰か。神の言葉なるものをそもそも聞き得る自分の基礎があったのか? 僕ら異邦人は、そのことから問わなければならない。

人が人の言葉で人の思考するそのこと自体を精緻に突き詰めていく。余命いくばく、僕がフッサールの現象学やハイデガーの『存在と時間』をボケ防止のために読み始めたのはそういう理由からであった。・・・