◆ブログの373回目に書いた僕の(独り言)に関係するような話で、実際に世界で起こっている話でもあると思われる。今でも、地球の裏側では、戦争(話の中の賢い狐の代理戦争)ごときを行って多くの人が命を落としているのではないだろうか。
◆『狐と魚の対話』******************************************
<<ある日、狐が海辺にやってきて魚に向かって話しかけた。
「私は賢い狐である。魚たちは私の話によく耳を傾けなければならない。私は今、陸上で多くの成功をおさめている。多くの友達は私を高く評価している。実際私はこの賢さのために、現在動物界の頂上に位置することができるようになった」
狐は自慢げに続けた。
「私の見るところ、海の中は大変難しいことが行われているようだ。大きな魚が小さい魚を食べてしまう。いま生きていたと思っても、次の瞬間に大きな魚がやってきてあなたは飲み込まれてしまうかもしれない。また、漁師が来て、大きな網を投げ入れ、お前達を根こそぎ獲っていってしまうかもしれない。お前たちの住んでいる生活環境は非常に困難なのだ。だから私はお前達魚に素晴らしい提案をしよう。お前達が住んでいるその困難な海の環境から離れて、私がいま立っている海辺の近くに集まってくるがいい。そうしたら私はこの賢い頭をつかって、お前達を非常に安全に保護してやろう」
これは魚にとって非常に魅力のある申し出だった。そこで魚たちはいろいろ話し合った末、この賢い狐の言うことに従おうとした。
そのとき一匹の賢い魚がやってきていった。
「狐のいうことは確かに本当のことかもしれないし、すばらしい申し出であるかもしれない。海の中の生活は確かに困難に満ちたものである。冬になれば寒いし、大きな魚がきてわれわれを飲み込むかもしれない。漁師たちが網ですくいとってしまうかもしれない。しかし、仲間たちよ、考えてごらんなさい。この困難な海の中の生活は、われわれが元来持っていた自然環境ではなかろうか。もし、狐の提案に従って、われわれが海辺に近寄って集まったら、われわれはもはや自由を失って死んでしまうかもしれない。そこで私はこの素晴らしい狐の申し出は一種の謀略であろうと考えるのだ。だから、この狐の提案に耳を傾けることなく、今まで通りこの難しい、しかし、我々にとっては自然の環境の中で生きて行くことにしようではないか。
さらに、この賢い魚は仲間たちに、
「此処こそがわれわれの生存における最もよいチャンスなのであり、そのためにわれわれは最上の生きていく道を発見しようではないか」 とことばを継いで言った。>>
******************************************
この西暦二世紀ころのタルムードの寓話は、ユダヤ人が民族としてあくまでもユダヤ人であれという教訓を示すために作られた話なのである。ギリシャ人やローマ人やキリスト教たちは、確かに現実生活において成功していた。しかし、そのような成功に決して目を奪われたはならない。生活は困難であっても、ユダヤ人はユダヤ人の海の中で泳ぐべきであるという教訓をこの狐と魚の寓話によって示している。
この教訓は、そのまま現代(1976年に書かれた文章である)の日本人が心の底までヨーロッパ的になり、アメリカ的になったときこそ恐ろしい罠が仕掛けられているのだ。
日本人が自分の伝統的な宗教を捨ててキリスト教徒になったときにも、同じような危険が潜んでいるのである。このような行動は、日本人にとって自然環境である自分の海を自ら脱出して、危険な狐のいる海岸に近づく行為である。このことが日本国民の大多数の人たちによって行われるようになれば、それはそのまま日本国の伝統の、完全な破壊を意味することになるであろう。 (ユダヤ人ラビ M・トケイヤー 『日本買いませんか』 箱崎総一訳 双葉社「武士道は死んだか」より ※( )とアンダーラインは僕)
◆日本人にキリスト者が少ないと言われるのは、誰しもが暗黙の中にこのことを感じているからであろうと思う。ユダヤ人は民族のどこにいても民族の自主独立を保ってきた。霊的な意味では日本人は非常に固有の歴史があるようにも思う。かといって、キリストの命のことばを会得できないということはない。だからこそ、精緻に僕らはその事をよく考え理解しないといけないと思うのである。・・・ 続く
◆『狐と魚の対話』******************************************
<<ある日、狐が海辺にやってきて魚に向かって話しかけた。
「私は賢い狐である。魚たちは私の話によく耳を傾けなければならない。私は今、陸上で多くの成功をおさめている。多くの友達は私を高く評価している。実際私はこの賢さのために、現在動物界の頂上に位置することができるようになった」
狐は自慢げに続けた。
「私の見るところ、海の中は大変難しいことが行われているようだ。大きな魚が小さい魚を食べてしまう。いま生きていたと思っても、次の瞬間に大きな魚がやってきてあなたは飲み込まれてしまうかもしれない。また、漁師が来て、大きな網を投げ入れ、お前達を根こそぎ獲っていってしまうかもしれない。お前たちの住んでいる生活環境は非常に困難なのだ。だから私はお前達魚に素晴らしい提案をしよう。お前達が住んでいるその困難な海の環境から離れて、私がいま立っている海辺の近くに集まってくるがいい。そうしたら私はこの賢い頭をつかって、お前達を非常に安全に保護してやろう」
これは魚にとって非常に魅力のある申し出だった。そこで魚たちはいろいろ話し合った末、この賢い狐の言うことに従おうとした。
そのとき一匹の賢い魚がやってきていった。
「狐のいうことは確かに本当のことかもしれないし、すばらしい申し出であるかもしれない。海の中の生活は確かに困難に満ちたものである。冬になれば寒いし、大きな魚がきてわれわれを飲み込むかもしれない。漁師たちが網ですくいとってしまうかもしれない。しかし、仲間たちよ、考えてごらんなさい。この困難な海の中の生活は、われわれが元来持っていた自然環境ではなかろうか。もし、狐の提案に従って、われわれが海辺に近寄って集まったら、われわれはもはや自由を失って死んでしまうかもしれない。そこで私はこの素晴らしい狐の申し出は一種の謀略であろうと考えるのだ。だから、この狐の提案に耳を傾けることなく、今まで通りこの難しい、しかし、我々にとっては自然の環境の中で生きて行くことにしようではないか。
さらに、この賢い魚は仲間たちに、
「此処こそがわれわれの生存における最もよいチャンスなのであり、そのためにわれわれは最上の生きていく道を発見しようではないか」 とことばを継いで言った。>>
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この西暦二世紀ころのタルムードの寓話は、ユダヤ人が民族としてあくまでもユダヤ人であれという教訓を示すために作られた話なのである。ギリシャ人やローマ人やキリスト教たちは、確かに現実生活において成功していた。しかし、そのような成功に決して目を奪われたはならない。生活は困難であっても、ユダヤ人はユダヤ人の海の中で泳ぐべきであるという教訓をこの狐と魚の寓話によって示している。
この教訓は、そのまま現代(1976年に書かれた文章である)の日本人が心の底までヨーロッパ的になり、アメリカ的になったときこそ恐ろしい罠が仕掛けられているのだ。
日本人が自分の伝統的な宗教を捨ててキリスト教徒になったときにも、同じような危険が潜んでいるのである。このような行動は、日本人にとって自然環境である自分の海を自ら脱出して、危険な狐のいる海岸に近づく行為である。このことが日本国民の大多数の人たちによって行われるようになれば、それはそのまま日本国の伝統の、完全な破壊を意味することになるであろう。 (ユダヤ人ラビ M・トケイヤー 『日本買いませんか』 箱崎総一訳 双葉社「武士道は死んだか」より ※( )とアンダーラインは僕)
◆日本人にキリスト者が少ないと言われるのは、誰しもが暗黙の中にこのことを感じているからであろうと思う。ユダヤ人は民族のどこにいても民族の自主独立を保ってきた。霊的な意味では日本人は非常に固有の歴史があるようにも思う。かといって、キリストの命のことばを会得できないということはない。だからこそ、精緻に僕らはその事をよく考え理解しないといけないと思うのである。・・・ 続く
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