marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(441回目)『雪国』の温泉芸者「駒子」のモデルとなった人 8/29(424回目)の宿題

2017-10-25 05:00:00 | 日記
◆今回ようやく、宿題の消化が出来ます。これは1999年朝日新聞に掲載された川端康成の『雪国』の駒子のモデルになったと言われた方の死去の記事です。文庫版に切り抜きを挟んでいました。当たり前のことだけれど、僕が生まれる前にも人々は生活がその場にあり、世界中にいる僕の知らない人々が生活を営んで来ている訳ですが、その個々人の生き様というかリアルな生活にその生きた個々人の生涯を考えると何かとても深い感動を僕は覚えるのです。

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 「雪国」駒子のモデル 小高キクさん死去 83歳 
 川端康成の名作「雪国」のヒロインで、「温泉芸者・駒子」のモデルと言われた小高キクさんが先月31日午前11時39分、胆管がんのため新潟県三条市の済生会三条病院で死去していたことが3日、わかった。83歳だった。
 小高キクさんは1915年(大正4年)11月23日、同市の生まれ。10歳のころから同県長岡市や「雪国」の舞台となった同県湯沢町の置屋で「松栄」の名で芸者として働いた。
 川端が初めて湯沢を訪れたのは、34年の冬。川端は高半旅館(原・雪国の宿 高半)に宿泊し、当時19歳だったキクさんが呼ばれ、酒の相手をした。川端は36年まで、湯沢を訪れるたびに高半旅館の二階の「かすみの間」に泊まり、キクさんを電話で呼び出したという。
 キクさんは40年、24歳の時に芸者をやめた。湯沢町の神社で川端にもらった原稿や本をすべて焼き捨てて三条市へ帰り、小高久雄さんと結婚。以後、和服仕立屋のおかみとして暮らした。
 その後は、川端との交流はなかったが、川端がノーベル文学賞を受けたのを聞き、「あの人も世界の先生になり、よございましたの」と越後なまりで答えたという。
 無くなる間際、「最後は静かに送ってくれ」との遺言があり、葬儀・告別式は○日午前11時から三条市内で親族のみで営まれた。
 (文中のアンダーラインは僕)   
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◆朝日の記事が何月何日のものかは分からない。黄ばんでしまった記事には当時のものと思われる写真が載っている。神社ですべてを焼き捨て、無くしたものとした思い出で、新居を新しい男と地道な生活を持って生涯を終えたということだ。10歳の頃からというから、随分、境遇は貧しい家庭だったのだろうな、「おしん」の時代だもんなぁ。人それぞれだろうけれど、僕はこの記事を読むと何故か言葉で言えない深い感動を思えてしまうのです。
◆それにしても、川端の女性を見る目と文章の表現は繊細でうまいです。一方的な偶像といわれようと。川端にとって国境の長いトンネルは、現実生活から乖離をする幻想世界を見るためのタイムトンネルだったのだ。・・・これでどうにか持っていた宿題を終えた。・・・次回、僕には書いておかないといけない話があるのです。 Ω

世界のベストセラーを読む(440回目)ノーベル文学賞はそのうちなくなるか?  後半18禁かも!

2017-10-24 05:23:58 | 日記
◆先の柄谷行人の「近代文学の終わり」は、「講演集1995-2015 思想的地震」という、”ちくま学芸文庫”で読むことが出来る。煎じ詰めると僕のブログで書こうとした素直な疑問とは異なるが、彼の中途の結論は次のようでおそれながら、やはり同じような考えを持つものだと思ったしだい。
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 文学の地位が高くなることと、文学が道徳的課題を背負うこととは同じことだからです。その課題から解放されて自由になったら、文学はただの娯楽になるのです。それでもよければ、それでいいでしょう。どうぞ、そうしてください。それに、そもそも私は、倫理的であることと政治的でることを無理に文学に求めるべきでないと考えています。はっきりいって、文学より大事なことがあると思います。それと同時に、近代文学を作った小説という形式は、歴史的なものであって、すでにその役割を果たし尽くしたと思っているのです。(p39-40)
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◆僕がひっかかるのは冒頭だ、ノーベル賞は地位が高いのではないのか、文学、そこでは道徳的課題を背負っていることは認められていたのではなかったか。そこで、宿題の掲題のノーベル文学者は、僕が高校の国語の教科書に受賞者川端康成である。これは8月29日にブログの424回目に掲載の宿題だった。僕の内面の暗かった高校時代、夏目漱石の「こころ」の感想文の宿題、(いくら人のエゴイズムがテーマとはいえ、なぜ先生が女を巡り、友人を裏切り自殺する経緯の手紙などを読ませて、学校では高校生の僕らに何を求めようとしたのかなのだ)、川端康成の「雪国」の情景描写のうまさを国語テキストに掲載し、実は内容は、今で言えば週刊現代か週刊ポストなどの大人向けの内容に何を学校では、学ばせようとしたのか・・・・なのである。生きた人間の見てくれのいいい傷つき易い瘡蓋だけだったのか。人というのは血と肉を持ち、傷つければ血がながれるのだ、それでも生きて行かねばならないのだというようなことを自我形成以前からそういう資料を提供するべきではなかったのか。
◆僕らの時代は倫理社会という学科は高校の三年だった。今ではどうか分からないが。西欧では、神に対して人間が対等に格闘した歴史だったことに対し、この国はその時代に生きる人の考えが基本となる、自分の言葉で自分のことを考え行動することは、学校ではついぞ教えられることはなかったような気がする。人として生きるベース(通奏低音部といったらいいか)それが、極めて情緒的、情念的である。だから川端の「美しい日本の~」に対し「あいまいな国の私」とは大江の受賞講演の題ではなかっただろうか。
◆以下、掲題の後半・・・。 
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 もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差し指をいろいろに動かしては眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思いだそうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の感触で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけてニオイを嗅いでみたりしていたが〔・・・・・〕 『雪国』新潮文庫 (p7)
 「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」と人差し指だけ伸ばして左手の握り拳を、いきなり女の目の眼に突きつけた。(p14)
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〔・・・・・ この指は、何をした指でしょう・・・・これは僕の質問 、その答えが文庫の中央 p86 あたりに出てくる。辺見庸という作家が「ゆで卵」で例えたところとは違っていたようです。男性のみなさん、何を想像されましたか。〕・・・答え・・・
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 (芸者)駒子はそっと掌(てのひら)を胸へやって、「片方が大きくなったの。」「馬鹿。その人の癖だね、一方ばかり。」「あら、いやだわ。嘘、いやな人。」と、駒子は急に変わった。これであったと島村は思い出した。「両方平均にって、今度からそう言え。」「平均に?平均にって言うの?」と駒子は柔らかに顔を寄せた。
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世界のベストセラーを読む(439回目)余談:近代文学の終わり(柄谷行人の講演から)

2017-10-23 01:00:00 | 日記
 今日は、「近代文学の終わり」について話します。それは、近代文学の後に、例えばポストモダン文学があるというようなことではないし、また、文学がいっさいなくなってしまうということでもありません。私が話したいのは、近代において文学が特殊な意味を与えられていて、だからこそ特殊な重要性、特殊な価値があったということ、そして、それがもう無くなってしまったということなのです。これは、私が声高く言ってまわるような事柄ではありません。端的な事実です。文学が必要だと思っている人はすでに少ない。だから、わざわざ私がいってまわる必要などありません。むしろ文学がかつて大変大きな意味をもった時代があったという事実をいってまわる必要があるほどです。
 私自身は文学に深くコミットしてきました。しかし、あなたがたにそうするようにいう気はないし、そんな必要はまったくありません。ただ、文学が永遠だと思われた時代があったのは何故か、そして、それがなくなったことは何を意味するのか、ということは、よく考えてみる必要があります。それは、われわれがどういう時代にいるかということを考えることだからです。
                    (柄谷行人 2003年10月近畿大学国際人文科学研究所付属大阪カレッジでの講演記録から)

世界のベストセラーを読む(438回目)ノーベル文学賞は何を意図して選考されてるの?

2017-10-22 18:20:22 | 日記
 傑作だろいうことは論を待たない、との講評?・・・本当かい? 僕はこの時代にそのように(これも川端康成同様、情景描写が美しいなどのみで受賞したと思いたい)講評を読んだ時とても気分が悪くなった。(これは、台風が近づいているためか持病の血圧が変調来した為かもしれないが・・・。)
◆生理医学賞は人という生き物の共通部位に対する対応医療解析だから論をまたない。物理、化学のジャンルも当然のごとく、進歩改善のように思われるけれど、でなければ新たなる現象の発見と言うもので普遍性がありそうなのだが、文学というジャンルはどうなのだろうといつも思う。僕らはブームに動かされるより、結局、賞を選択するのも「人」であるとを考慮に入れるべきだなぁと思うのだ。何を意図してこの時代に選ばれたか、その選考者はどういう人たちなのかが気になってくる。
◆というのは、この地上の人類はどこへも行けない閉鎖系の中で考えさせられるのであるという地球規模の視点で考えなければいけない時代がかなり前から到来していることを認識しないといけないと思っているのだ。そうこうしている内に地球全体が終わりを迎えるぞ、という気持ちが僕の心のどこかにあるからなのだろうなぁ。実際にはかなり先の事だろうけれど。
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 私の名前はキャシー・H。いま、31歳で、介護人をもう11年以上もやっています。・・・・「わたしを離さないで」 カズオ・イシグロ
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◆僕が何を言いたいのか。人が人を物理的に操作するには、例えばそれが臓器移植で完全にその人が死に至るとしても、魂抜きということを仏教では行うことになるだろうな。それからの操作(オペ)となるだろう。しかし、実際、生きている人を死に至らしめるということは、やはり神の似姿に創造された人は禁忌領域にあり、本当は我ら地上のものではないのである。そこが、そもそも、僕の思考ベースと全く異なるところだ。神は霊である(笑ってはいけませんよ)、これが大前提。僕らが機械的な言葉や文字を越えるには、地上の事で行われているそのことをまず知ろうとすることだろう。イエスが、イスラエルの教師ニコデモを叱責したように、地上のことを話して分からなければ天上の事を話しても尚更わからないだろうということだ。僕にとっては、肉体に霊が吹き込まれ、魂を持ち我らを生かしているのであるから、この視点が抜けていると、すべてが失礼ながら茶番劇に見えてくる。まして、人という最高の傑作に人が破棄的操作を加えてはいけないということに挑戦していることは自分の事さえろくに知っていないといことになる。そこから、この地上での多年にわたる人類の努力の成果、人権や人格などという言葉が吹っ飛んでしまうからね。そこから何ら普遍的なものが引き出されてこないという、ノーベル賞というのはいかがなものなのだろうと僕は思うわけだ。
◆そもそもノーベル文学賞というのは、そういうものではないのだよ・・・というのであればこれから講評が多く出てくるだろうけれど、僕はとても知りたく思っているのである。これは、キリスト教文学評論家佐古純一郎のことを書き始め、ノーベル文学賞をもらった川端康成の『雪国』を少しブログで書いた時から(僕はこの小説は根が男なものだからこの一冊が好きなのだが)、高校の国語の教科書にあの有名は冒頭が載って、内容の一部の感情表現がとてもうまいなとは思うけど、全体の内容は今では児童保護法にひっかかるだろうし、実際には、週刊現代や週刊ポストあたりの大人向けの小説のジャンルに入るような内容なのだなぁ。今、思えばこの日本の国は、高校生に何を覚えてもらいたいと考えていたのか・・・・今もか。
◆煎じ詰めると、この国には神が人を自分の姿に似せて創造したという視点がまったくなく実際の神は留守になった時代が長くあったということになる。人とはこういうものであるという基本ベースがなく、雪国の作者の書く意欲となっている偶像、あるいは幻想はやはりそう思う側の死を招くということになるのである。(1972年72歳4月16日ガス自殺)・・・ 次回、残っていた宿題 

世界のベストセラーを読む(437回目)続き:ノーベル文学賞を考える:新しい人間の誕生

2017-10-21 02:00:00 | 日記
 そういう訳で、文学における人という生き物の内面性については、ドストエフスキーあたりが人類に於いてはやはり山だったのだろうなぁ。ノーベル文学賞について、古くはカミュや(サルトルは哲学だが辞退した)、日本の川端康成、大江健三郎くらいが、僕の頭の隅にあるくらい。今回、カズオ・イシクロのSFっぽい内容に、決して非難するわけではないけれど、この僕の文字だらけのブログの主旨において(人の・人類の)世界はその方面に行くのではないのだけれどなぁ・・・という思いだった。
◆というのは、世界のベストセラー聖書、しかも旧約聖書、「神は自分の形に似せて人を創造された」(創世記第1章27節)。そして、第2章7節、「その鼻に命の息を吹き入れられた」(これは、盲信という訳ではなく、この事は事実であるという設定のもとにこのブログは、進められてきたから)・・・のであるから、同じ、逃げ場のない地上の人は、他の人に対して、形ある物(血と肉がある)となり命(霊)が吹き込まれたのであれば、その時点ですでに、我々が何ら手の出せない神の創造の領域を操作しようとする意図があってはいけない禁忌領域に属することに「人」はなっているというのが僕の変わらない考えだからです。従って、臓器移植のために人が種別化され、誕生させられ、その人たちが死を願わなくなる、生を熱望するという設定は、僕にとっては時代にそぐわないだろうよ、と考える訳だ。
◆なぜなら、第一今は自分の細胞で(ISP細胞)で、臓器移植も将来可能であろうということが考えられる時代なのだよ。むしろ、この生理医学的に進化させられて我らが、「神の一人のように永遠に生きる者となるおそれがある。」(第3章22節)と神の存在の領域を脅かすような時代に入っていき、しかし、ISP細胞で誕生した新人類は、その手法を悪の手につかませない闘いを行いつつ、核の汚染により余命幾ばくかの地上の人類を救済するために、神の領域(霊)と実際(霊を吹き込まれた人間)との間を行き来し、人々にそのことを啓蒙しつつ、時代は次の世界に移行していく様子をリアルに描写する。その啓蒙にも事実にも、地球上のすべてのしがらみを断ち切るために如何に、思考を洗練させ、人とはこういう者という理解を限界ある中で教えつつ、脱出と(霊の次の世界へ、さらに高みへと)前進を図るべく時代はあるとするものが求められるのであると僕は思うのだ。時代は、「神の創造せし人は霊的な時間、空間にある」ということを知らしめるべくかなり以前から求められているのだ。僕ら人類は、聖書が語り、シモーヌ・ヴェーユも求め、大江健三郎が目覚めよ、とした「新しい人間」が誕生しつつあるのだから。
◆僕らは、自分の顔が他人からどう見られているか、知らないのだ。こころの思いとかという意味ではなく実際、知らないで殆どの人が一生を終えるのではないだろうか。鏡はあなたの顔の反転だ。合わせ鏡にしないと他人から見られる顔は分からない、これは物理視覚的に。
それと同じように、人が生きている空間に於いて、人の頭脳の中で何を考えているかも神の視点からでないと(つまり人には出来ない)分からないということと同じようなことだろう。これはどこまで行っても機械的な言葉、文字、音声での手段しか駆使できない人には限界ああるということだ。パウロが手書みで述べている。つくられた陶器(人)は陶器師(神)に何でこのようにつくったのかと文句は言えまい、と同じようなもの。**** 「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(ヨハネ伝2章25節)
◆新しい人間・・・イエスは言われた。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ伝3:3)・・・イエスの言葉を挟んだが、僕ら人類は地上の自分達のありようも殆ど知ってはいないのだ。イエスは、イスラエルの教師ニコデモに言う。「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話してどうして信じるだろう。」(ヨハネ伝3:12)
◆これからの人類に求められる文学とは、このこと、天上への帰還の心の備えを気分や思いなどということを通り越してリアルに人類に促すものとなっていかなくてはいけない、時間はそんなに残っていないのだ・・・僕はそう思っているのである。・・・ Ω