◆先理解として、キリストを神の子として信ぜず、預言者の一人であるとのみ信じているユダヤの人々も、無論、キリスト者の大切とされている先理解の物語。旧約聖書の初めから、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記 (モーセ五書と言われる)。そして、大きな一区切りとなるそのあとの神の示された地に入ったモーセの後を継いだ物語のヨシュア記。とても重要で大切であると言われているのにも関わらず、その物語の中の異邦の地にいたころの信仰の持ち方、神の存在ということをどうして学び、声高に語り継がないのでしょうか。この国は異邦の国であるにも関わらずです。
◆ただ一点、ヨセフが幼いころの境遇と解夢の能力、兄弟に裏切られ、奴隷に売られ、夢を解く力の故にエジプトの宰相まで上り詰め、最終、一族同胞を救済するという内容が、イエスの救済物語に投影されているところのみですね。創世記50章19節 ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あんたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。・・・」困難試練を、その時は訳がまったく分からず不幸に見えようと、神はすべてのこと相働きて益となるを我らは知る(パウロの手紙)、すべてを神はよきに計らって下さっているのだとうこと。旧約で重要とされているこの創世記からの物語を僕らはさらに深く創造主と言われる歴史の演出家、神の存在を学ぶべきかと思います。
◆一応この国の歴史から、ほとんどの方が確かなる信心はどうかだが、失礼でない言い方をすればしっかりとした知識としてではないであろう、先祖が一応それで葬られて来たからという意味でのみの仏教、あるいは神道であろうと思われます。ここで先の”しがらみ”から言えば、多くの人は伝統、風習でそうしてきたからという先理解があるということになりますね。そういう人たちからすれば心の問題、信仰心を人の言葉で理詰めであれこれというのはとんでもないということになりますが。しかし、死者を弔い、先祖を思うということが、創世記から始まりヨシュア記の最後に記されていることに僕らはもっと考えを深くしなければいけないと僕は思っています。・・・続く