marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(655回) (3/3)退任牧師からの質問状と僕の回答

2020-04-18 10:12:42 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

四)親愛なる兄弟に質問します。
 1)一から三までの問いかけは現実的でしようか。共通の認識としていただけるでしようか。
 2)この解答として教会は十字架と復活を伝えているのですが説得力があるでしようか。
   例えば「信仰を語る会2や6」(これは以前に一部ブログ配信したのものです)での話でそれに応えられているでしようか。

*****以下 僕が返信しました回答です。

  1)はじめに、このご質問はどういう立場の方へのお話資料でしたでしょうか。信仰の経験によりキリスト者はすでに答えをみ言葉から得ておりますので、信仰者への語りとしても信仰の入門者へというところでしょうか。小生には佐伯先生の内容がぴったりくると思いました。日本人の宗教感ということについて、日本仏教や神道や禅などにそれらの思いが表れてきていると思われますので。


2)教会は十字架と復活を伝えているが説得力があるかについてですが、これも語られる側の人がどの程度の先理解をもたれているか、によって異なってくるように思われます。イエスの言動やその後のパウロの独自の見解などは、たいそう幅が広く、深い意味がありますので、その具体性をやはり詳しくみ言葉から直接、提示、語られると、より今に生きているイエス様の言葉に触れられるように思われます。実際に人を創造された神の御業のそのノウハウがあからさまに信仰者には語られるようになったということですから。例えば小生の好きなヨハネ伝11章ですが14節。イエスは「ラザロは死んだのだ」と明言された言葉に対して、さらにはルカ伝9章7節の不思議な言葉、これはキリスト者にとって「生きる、死ぬ」とは、どういう意味を指しているのか深い示唆を与えてくれているように思います。使徒信条に語られる「生きる者と死ぬる者を裁きたまわん」。さらに、それを解明していると思われるパウロの手紙コリントの信徒への手紙Ⅰ:15章50節~58節などは、実際、人を創造された神のみ言葉の解明として我々が理解しておかなければならないことなど。

 生と死、すべてを支配されるイエスが実際に復活したということは事実、人類の最終的なすべての恐れを解消するものであったし、実にそこにすべての被創造物の希望があるということですね。小生が本を上げるとすればキイェルケゴールの「死に至る病」を上げたいと思います。意図にはそぐわない回答かもしれませんが返信いたします。先生、皆様の健康が守られますよう祈ります。・・・Ω 


世界のベストセラーを読む(654回) (2/3)退任牧師からの講演記事と質問状

2020-04-18 09:56:11 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

(三)佐伯啓示先生の死生観
 現実の世界では人間は欲望を持ち、ものを所有して喜び、自我をどこまでも膨張させ、最後は病院のベッドに括り付けられ死んで行く。キリスト教のように肉体は滅びても霊魂は永遠だと信じられればまだしも、法然のように死後極楽往生出来ると決すればともかく、或いは神道学者平田のように死後の魂は目に見えない幽界で常々生者と共にあると信じられればともかく、現代人はそう簡単に永遠の霊魂を信じることは出来ません。ではどうすればよいのか。我々はこの世俗的な現実世界に閉じ込められています。生も死もこの世俗世界にある。全てのものが生まれては死んで行く、その生命的な運動が永遠に繰り返される世界を想定していることになるでしよう。それが不生不滅の世界です。だから、空や無とは何もないということではなく、全てのものがそこにあって常に姿を変えながら運動しているその生命的な運動そのものと言えるでしよう。
 この俗世にありながら絶対的な無、真の空という方法の実相(実態)に思いを致せば俗世の現実の見え方が違って来るでしよう。絶対的な無(空)、或いは永遠の生命の運動を前提において現実世界を見ればこの現実の神羅万象が絶対的な無或いは永遠の無或いは永遠の命の現実への投射(鏡)であるように思えて来るのではないでしようか。無とは常なるものは一切存在しない、全ては実体として捉え得ないということです。物質的現象は全て生まれて消滅して行く。そのこと自体が「無」の表現でありそれが現実に形を成したものだということになる。それは「無」から出ておのずと生育しまたおのずと滅して無へ帰して行く。我々自身もまたそうなのです。それをそのまま当然の理として認めるところに日本人は「自然」を見たのでないでしようか。花は咲くもよし、散るもよし、であり人間も同じです。全てが「自然」のおのずからの作用なのです。
 そうは言っても、世俗の現実にあって我々はもちろん覚ることなど出来ません。おのずからあるがままに任せるなど容易に出来ません。善意や欲望からは逃げられません。生死即涅槃(一切の煩悩から解脱した不生不死の境地)などとても無理です。しかしそれでも永遠の無や空といったものへの眼差しを向けることは出来るでしよう。そのとき、絶対的ものとは何処か超越世界にあるのではなく我々の心の奥底にあるというべきではないでしようか。手の届かないところにあるのではなく我々自身の心の奥底にあるのです。生も死も無意味だと思うことこそが自我の執着を否定したうえで現実世界をそのまま自然に受け止めることを可能にするのです。我々は草木のように土から生まれまた土に戻って行きそして別の命が芽を出す。全ての存在がこうした植物的な循環の中にあることをそのまま受け止めほかありません。不正不死とは生まれたものは死に次のものがまた生まれるという植物的で循環的な死生観を言い換えたものと言っていいでしよう。生も死も自然の中にある。そこにおのずと生命が循環するということです。この自然の働きに任せるのです。とすれば我々は特に霊魂はあるかないのか、或いは来世はあるかどうか、などに悩まされる必要はない。この達観に接近しようしたのが日本的な死生観の大きな特徴だったのであり、現代の我々にも決して無縁ではないでしよう。
 以上が先生の死生観ですがこのことに達した動機を次のように述べています。
1) 死など不可知だと分かっていても人間は何処かで死を意識する動物であるという極めて人間的且つ一般的な理由がある。
2) 人間は年を取るとどうしても意識せざるを得ないという一般的な事情と自分自身もそういう方向に向かっているという個人的な事情が重なっている。
3) 日本の超高齢化社会という現実が死とどのように向き合うかは社会問題となって来る。
4) 日本人の宗教精神を問うことになる。
5) これが一番の動機であるが、死を論じることは実に生を論じることにもなるからだ。往々にして「死」はただ「生」の切断であり「生」を終わらせるものだと考えられ勝ちですが、そうではなく「死」は正確には「死への意識」が「生」を支え充実させることもあるのだ。 以上
<参考書籍> 佐伯啓示著『死と生』新潮文庫、トルストイ・原卓也訳『人生論』新潮文庫、伊東 益著『日本人の死』-日本的死生観の視覚―北樹出版  ・・・次回 先生からの質問状があります。僕からの返信回答も記載しました。・・・ 続く
 


世界のベストセラーを読む(653回) (1/3)退任牧師からの講演記事と質問状

2020-04-18 09:36:27 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

649回目の冒頭記載の宿題と思いつつも'20年の教会歴イースター12日にかけて、敬愛する退任牧師から続けて、先方での”信仰を語る会”での原稿が送られてきて、それに質問がありました。高齢者も増え、新型ウィルスのこのような事態に”死について考えること”は、大いに意味のあることであると。それについて教会の方々への質問が小生にも来ましたので返答。3回に渡る原稿は長すぎて掲載できないので未信者の方にも理解できるであろう箇所を抜粋、掲載します。**************

◆死生観に関する議論
(一)死の恐怖に晒された現代人:死を思うのは人間だけであり、観念の死に脅かされる恐怖を持つが人は答えを得られない。 

(二)トルストイの達した「死生観」結論は以下の二つの葛藤(想い)であってどちらもある種の救済を求めているというのです。
(1) 死は絶対的なものでこの現世という相対的な世界から意味を与えることは出来ない。だが絶対的意味だからこそれはあらゆる形の生を受け入れ全てを許すだろうとの思い。
(2) 死そのものは無意味である。だからこそ死を超えた何か、「生命」と呼ぶような何かがある。そしてその永遠と続くしかも個人の死という現象を超えた「生命」こそが個人の生にも与えるとの思い。例えばキリストの死がそれにあたる。キリストの死は彼を見ない何の交流もない信者の人生を変え人生に影響を与えて来た。トルストイの尊敬する兄の場合もそうだ。兄の死が千年前であっても私は影響を受ける。それこそが「生命力」である。こうして私の生の根本は全て私以前に生きとうの昔に死んだ人々の生命からなっている。従って人間は誰でも自分の死後も他人のうちに生き続けることが出来る。その意味で死んだ人々の生命はこの世限りのものではない。*****

 次回へ 続く・・・ 

 


世界のベストセラーを読む(652回) イエスはどこによみがえったのか? マタイ福音書28章から

2020-04-15 13:58:45 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

タイトルに書いた「答え」は復活の時、現れた天使とイエスの言葉にある ***マタイによる福音書28章5節から10節まで***

◇・・・天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体のあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かにあなた方に伝えました。」婦人たちは恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」*******

◆マタイの福音書には、他のマルコ、ルカ、ヨハネの福音書と違い2度もそれは「ガリラヤ」である、と書かれている。しかも、天使とイエスの言葉として・・・。マルコにはマタイの天使が語った『 』の言葉だけであり、ルカには24章9節には、「・・・まだ、ガリラヤにおられたころお話になったことを思い出しなさい。・・・」と出てくるだけである。最も後に書かれたと言われるヨハネ福音書には、その場所は書かれていない。なぜなのだろう・・・。このような、聖書の内容から比べたり、どのような立場の記者がどこで、そのような相手に福音書を読んでもらおうと書いたのかを推察する研究も面白いし、それぞれの記者に思いを同期するという意味合いで深い学びができそうだ。(講談社学術文庫 荒井 献著「イエス・キリスト(上下)に比較がまとめられている」)

当時のガリラヤは、弟子たちの日常の生活の場であった。華々しい都会でもなんでもなかった。ただそこは、喜びの知らせが述べ伝えられ、始まった場所だった。マタイは「そこに戻りなさい」と、天使と復活したイエスに語らせているのです。2020年の今も復活したイエスは、すべての人に「あなたが、わたしを思うその場所」に、つまり「誰でもが生活する日常のひとりひとりの生活の場所」に復活しているのだ(そばにいるのだ)と語っているのですね。「気づきなさい、わたしは日常のあなたのそばによみがえって共にいるのだ」と。「あの方は、よみがえってここ(墓)にはおられない。わたし(イエス)を思うその場所に、常に変わらず復活しているのだ」と、いうことになるのです。

◆それでは、再びわたしたちは、どういうイエスか、と思い、ガリラヤで福音を述べ伝えたイエスに出会うために「聖書」を読み返すのです。つまり、彼がふたたび来られるまで、復活したイエスに会わんとする人は、福音書を読み始めるのです。そのリフレイン(繰り返し)がいつも語り掛けられているのです。***読者の方へ! どうぞ、どんな時でも特に困難に会っているときは彼の言葉を思い出して欲しい。***わたしは、ガリラヤであなた方を待っている。そこで会えるであろう。」と ・・・Ω 


世界のベストセラーを読む(651回) '20年4月12日 イースター:イエス様の復活!合同礼拝

2020-04-15 10:16:09 | 日記

イエスの復活については、イエスが弟子の足を洗ったとされる洗足木曜日、そして十字架に架けられた金曜に続けてアップする予定だったが、新年度体制のための打ち合わせや、予算や報告資料つくり、さらに先にアップした内容に引き続き、東京での退任牧師から重ねて先方での信仰の学びの資料がメールで送られた来た件に、配信し、又、体調もあって目一杯だった。

◆’20年の教会歴では4月12日が復活祭(イースター)となっており、かねてより予定していた青山学院高等部の(かつて東北の地で牧師をされていた)聖書学の先生が現在のこのような状況で来県されなくなり、礼拝で原稿を代読しイースターの合同礼拝を持った。こちらの県ではまだ、重篤者が出ていないが夏の大きなイベントも中止となり、高齢者の方々の礼拝出席を自主的に遠慮された方が多かった中で、三密と換気をこころがけ、子供たちが作ったイースターエッグを配りながらの大変、恵まれた礼拝を短時間で行いお祝いすることができたことは感謝なことでした。

◆合同礼拝は、子供たちと大人と共に礼拝をもつことだが、原稿を送ってくださった先生のお話も小さな子供たちにもわかるとてもよいお話だった。*****~イエス様の復活~ ドキドキからワクワクの間 ~「マタイによる福音書28章1-11節」******

◇イエス様の墓に向かう女たち、そして逃げた弟子たちの死人のようになった番兵たちのドキドキに対して、墓の前に現れた天使がいう。「・・・あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。・・・」 女たちや弟子たちのドキドキは喜びのワクワクに変わったのです。私たちは、いろいろなところでドキドキとワクワクの間に立つことがあります。時には私たちはドキドキが大きくなりすぎて、何もできないままで終わることがあります。そのような私たちに、ワクワクしていいのだとイエス様は言います。ドキドキを抱えたまま、ワクワクに向かって走っていきなさいと復活したイエス様は言ってくださいます。私たちの悪い心を赦すために十字架にかかったのだよ、そのドキドキを赦すために復活したのだよと、イエス様が語っておられます。

 今の、この新型コロナウィルスによる様々なドキドキもドキドキで終わらないとイエス様は約束してくださっています。必ず、この先に喜びがあるよ、ワクワクがあるよ、と苦しみを受けてそれでも復活されたイエス様が「喜びなさい」と言われます。イースターおめでとうございます。それは、ドキドキから立ち上がって、ワクワクに向かって走って行こうということです。教会の皆さんにもイースターのワクワクがたくさんありますように。(以降 お祈り)*******(一部字数制限のため原稿4枚で要旨のみで一部変えています)********Ω