◆僕のことだけをグダグタと書くのは見向きもされない。といってこの書いているのは、この行為が僕にとってのボケ防止なのであると同時に、いずれ認知症や全くのボケにならないような自分自身への毎日が格好良く言えば、実験のようなものなのだ。誰でもがそう思っているのだろうけれど。そうでない方もおられるだろうから、こんな奴のいるのかと思って読まれて欲しい。かの評論家江藤淳も書いても読まれなければ意味がない(食ってはいけないと僕は正直に思ってしまったが)と言っていたのだから。正直、内容ともかくブログにすればクリックされないと意味がないと・・・。◆その思考の中においてもストーリーもそれなりにあって、後半も下り坂の人生にあって、目の前の多少幼稚なことだろうと思われることにでも、「主体性を持って」(などという言葉で書くと小難しくなるが)楽しいイメージを持って少しでも人生(今、ささやかに生きていること)に喜びを見出したい。◆その喜びを見出す土台である自分の頭はどうなのかと第一にまずは考えるのが、”思考の整理学”ではなくて”頭の生理学”からなのであった。つまり、東大生は生まれつき思考の土台である頭の仕組み(知能や遺伝も含む)などはもうすでに整っていているのですから、皆様も頭をすっきりさせるために東大生にもよく読まれている本を読んで頭の中を整理して真似てみてねということなのだ。・・・いずれ、このグダグダ思考も実際、仕事(生活の糧を得るために)で試されることになったのだが・・・続く
◆外山滋比古先生の30数年前の「思考の整理学」という本が売れているそうだ。僕も昔、読んだ記憶があるけれどぼんやり。本棚の奥のどこかに眠っている。頭の思考を整理する前に、僕にとってはそもそも ”俺とは何なんだ”という自分が分からん時代だったように思う。あの学生時代、僕らの先輩達は、といっても理科系の学部には、殆どいなかったけど学生運動の全学連、革マル、民青(これは学連とは違うけど)、プレハブのクラブハウスに旗やアジの立て看板など、マイクでアジし、このような地方から成田闘争に参加した奴などいたのだから、学内に黙って入って来た覆面パトカーを大勢が取り囲んで座り込み騒動になったり、倫理の授業がボイコットされてりした記憶がある。◆学祭の時は、「赤ずきんちゃん気をつけて」の庄司薫(後にピアニストの故中村紘子のご主人となった)や「されど我らが日々」の柴田翔という作家(こ方は若い大学の先生だった)などが来て講演したましたが、今の若い人は殆どらないだろうなぁ。まぁ、僕にとっては実に暗い時代だった。何を言いたいのかといえば、東大生に読まれているとはいえ、もともと”俺とは何なんだ”が疑問だったその自分の基本というのがつかめないでいたわけだから、そういう外的知識を整理するノウハウ本もピンと来なかった訳である。だから、僕にとっては自分の”核”を見いだすのに悪戦苦闘したわけであったのだ。◆僕のぼんやり頭の思考整理学の長い旅が始まった訳だった。僕にとっての青春なんぞは、暗く湿って重くて恥ずかしい。思い出ごときに「世界のベストセラー~」の表題をつけているのは自分探しの途上でで彼の死に出会ったからである。時折、今でも十字架に掛けられた死に際の彼の声が聞こえる時がある。・・・続く
◆タイの民主化デモがニュースになっている。 米国の大統領選挙も11月にあり、コロナもそうだが毎朝見るNHKBS世界のニュースも、世界のこれからの動きはどうなんだろうと、浅学ながら時折、宇宙大の視野でぼんやり思うことがある。 こんなちっぽけな塵にもならない日本の田舎に住む僕が、偉そうにそんなことを思えるのは一人の十字架で死んだ男を知ったことからすべては始まっていると思っている。◆今、タイでは軍事政権政府と王制批判がおこり、民主化の市民デモが起こっているというのである。突飛なことに話が繋げているようだが、3年ばかりの公での神の言葉の業。地上での一人の男の伝えそして死んだことから、その宣教が欧米に与えた思想的影響は、大変なものだったなぁとその流れを読み推察すると改めて思わされる。民主化や人権や人格やその他、経済しかりでその人社会の自らの生きていくための責任としての良くも悪しくもその遂行は、自滅するのではないかとも思える愚かな人類、地上に存在する人、神の創造せし人とは何たるか、その解明の言葉にすべて懸かって来ていたからである。思想の流れは、無論、語られた時代、大衆の要求にも合致したものだったろうけれど。それらの現代への貢献は大変なシステムを作って来ているからである。◆タイの民主化デモの貧困層の拡大が増大して若者が多数たちあがって大変な数に膨れ上がっているというのである。宗教改革から、ルネッサンス、啓蒙主義をへて、欧米では・・・などと流れを見てくるとアジアでは教科書で習う三権分立もまだままならないのかと思ったりする(日本も最近危うかったけど)。民主化・・・それは地上で誰でもが平安に生きるシステムかも知れない。しかし、そこでもまだ又、結局、地上にうごめく人にかえって行く究極の問題があるのだ。それは「罪」の問題であると。・・・続く
◆毎年、10月31日は宗教改革記念日である。宗教改革を行ったM・ルターは「キリスト者の自由」の最後に、「ヨハネの福音書」と「ガラテア人への手紙」を読んで欲しいと語っている。無論、自分の言葉でである。誰でもが読めるようにとルターはドイツ語に訳したのだから。今はインターネットなどで誰でもが組織的に聖書を学ぶことができるようになった。プロテスタントの牧師さん達、自分の言葉で聖書を読めるように信者を育てて欲しい。ご自分の勉強の成果は卒業してとうに次の時代に入ったのではないだろうか。◆「永遠の命の元へ」などというと何処かへ飛んで行ってしまう宗教オタクの言葉のようだが、決してそうではない。キリスト教というと宗教ジャンルの一つと思われるから本当は好ましく思わないのだが、無論、そういう地上の定義など超えたものである。読者がこれを読み、改めて目が文字を追って、読もうとしているその場にあるという自分という事実に関することだからである。◆それは、誰でもが「幽霊」などという言葉を知っているが実態が分からないように、命あるものには誰でも関係するものであるがイエス(キリスト)は「神は霊である」とはっきり言っているのであるから。神の言葉によれば、神の似姿に創造された「人」は神の最高傑作で、それは「霊」、その器である「肉(肉体のこと)」、そしてその一体となったその個々の個人の内なるものが「魂」と言われるようだ。◆これが本当かどうかは、読者の日々の心の満足に見られよう。目に見えない霊は多数、浮遊するが悪さもするし混乱もさせる。イエスは語る。「いつも、わたしの霊(聖霊)につながっていなさい」と。ここが、すべての原点である。というのは、こんな人に関するキリスト教の根本から、急に今のタイの民主化デモのニュースを目にして思わされたことは~ 続く
◆神は「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と言われているが彼らは信じて幸せだったのだろうか。僕らがよく聞く第一にM・ルターが言った「信仰義認」が第一に優先するように僕は思う。人はそれぞれ他人の人目線で決して図られるものではないから。その信ずるという判断は、とにもかくにも命を人に与え、良くも悪しくもわれら人の判断基準如何にかかわらず、その方がおられるということを信ずるということだった。◆奴隷に売られ、しかし、エジプトで宰相にもなったヨセフのその生涯の大半は人的目線では不幸だったろう。父のヤコブもしかり、エジプト王パロに「私の齢は130年、その人生は不幸せだった」(創世記47:9)と答えている。◆さて、天地創造の神を信ずるとはどういうことなのだろう。人生は一度しかない、だから「大胆に」とは第一、人目線ではない唯一の神を自分の人生を通して自分の言葉で会得することではあるまいか。人目線ではないのだから、大胆に生きられるであろう。彼らは、そうだったのではないだろうか。神は必ず導いていてくださる。そう信ずることであろうと。◆僕はよくイメージする。とてつもなく大きくいびつな氷山でも重心Gがある。その流れの中で溶け出しても形が異形になっていっても、そのGは必ずあり浮かんで流れる。いずれ人の生涯もすべて溶け出うように終わるであろう。その大河の流れが神が導きの中にある。幸か不幸かは問わない。いずれ形は亡くなり生涯を終える。人の魂Gは消えゆき、天の故郷へ帰っていくのである。神の導く永遠の故郷へ。◆「神は独り子を給うほどに世を愛された。信ずる者がひとりも滅びず永遠の命を得るためである。」(ヨハネ伝3:16)・・・Ω