◆人の意見でもよく言われる。一般に知られていることは、こうなのだ・・・ニュースなどでは、と。しかし、そ真相はこうである・・・という言い方。これは、真の原因は・・・とでもいえるものだろうか。これは、詳細分析。原因から結果が生ずる、聴く者に媒介となる伝達方法を解除して、自分で納得させる意味付けと言える。さらにこういう言い方もできるであろう。◆思考の階層である。先のようなおおざっぱなものではなく、同じことがらのもっと詳細な厳密なとらえ方の深堀といってもいいとらえ方である。それは同じことがらの表層、深層という垂直にとらえる見方である。例えば、見るというそのことにおいてもマクロからミクロへ、というとらえ方と言えるかもしれない。しかし、これもかなりおおざっぱな言い方である。それは内言語の中の垂直次元のとらえ方であるともいえる。◆実はこれを突き詰めていくと、究極的な光のような一点に集約されてくる一瞬をとらえることができる。「音を見、空間を聴く」というような澄んだ次元である。繰り返すがかなり明確な一点に集約されて来る。それは、この空化に鋭利に見える。脳の中のどこで起こるのだろう。脳の中のどこが機能しているかは、通常の思考は意識下で行われるから、どこが働いているかは理解できないが、瞑想などでは、先の一点の集約され働いている脳内のありかが分かるようになりそれは、前頭葉(大脳皮質)と間脳(松果体)のちょうど間で行われているようだ。その個所は、自分で理解できる。そこが瞑想時に働く、偏桃体というところらしいことが、あとで分かった。◆とすれば、人の脳内で神の言葉の受像機はそこにある、と言えるのかもしれない。僕が探してきた<G>の礎となる部分である。
◆思考の次元を僕なりに考えてみたが、そえは6次元はあるらしい。僕らの肉体の世界は3次元。それと内言語。それは観念と呼ばれることがある。人がいて、例えば自分、キーを叩いていて、それなりのことを考えていても3次元の世界には発音しない限りは出てこない、そういう次元がある。で、それが4次元(内言語の次元というべきか)。さらに、時間軸がある。時間の経過により、存在も、思考も過ぎゆく。これで5次元。これが、先ほどの4次元目の内言語も時間の経過があるとする。これで6次元なのか? これは間違っているかもしれない。ただ、書店でそういうコーナーがあったが、立ち読みもせず以前から思っていたことを書いてみたでけのことである。◆さて、言語を獲得した人は、食べ、排泄し、生殖するというほぼ、動物の肉体、子孫繁栄という基本本能と言うべきご先祖から進化して、観念的思考も駆使するようになると、その思考プロセスにも、生きている人をラジオ受信機に例えると、かなりの雑音が入り込んでくる。自ら劣化しないようにチューニングが正しく、行われるよう訓練する。人の肉体について、若いころは健康云々などの事柄は関心もなかったが、歳をとって肉体が劣化(老化)してくると、TVであれこれ健康食品や健康器具などの販売CMには、みんな関心をもつところなのだろうことが分かる。なにぶんにも疲労は自分の今の肉体に発生しているのだから、自分の痛み、あるいは無意識の劣化部分が思考に影響を与えているのではないかということを考える対象が自分の体としての実態があるので・・・。内臓の働き如何もかなりの影響を脳に与える。◆そのようなことを考えることさえ、自分の意識をもたらす言語と言うものである。脳がそのことを担うのであれば、ボケないように訓練しなければいけない。さらに、その言語の習得も、既に幼少期にはほぼ決まっていて、それが成長するにつれ、環境によって思考も、つまり習得言語のありようも変化してくるということなどであるはあるが、さらに人には、次元が高い、霊的次元があるということなのである。これは人が肉体を持ち生きているということに対する違った次元からのアプローチなのだ。創造者の目線はこちらから来ているのである。
◆「言語と思考」は学生時代読んだもので1973年6月30日第2刷発行で、あちこちに書き込みがある。言語の起源。動物から人間へ、言語の習得と人の大脳機構を語るに、いまでは更に人についてはかなり理解がすすみ、人工知能がでるまでになっているにも関わらず、人は自分のこととして、自分の脳を自分の脳で考え、いかに人生に課せられた戦いの視点をもって、すべての面において自己訓練していかなければ、人工知能に監視され、使われ、幻想社会に生かされて、自己をますます見失う世界になっていくだろうことを僕は危惧する。◆ショシャールは医者にもかかわらず形而上学的見解をはっきり述べており、最後にティヤール・ド・シャルダンの次のような言葉で結んでいる。***「かくて人間の努力の崇高な目的は、この地上の都を建設するものと、天国をまもるものとの終末論的夢を結びつけることであろう。幸福とは何かを気に病むひとに応えて言う。「人間が完全な自己となり、生きていようと思うならば、自己に中心をおいて、教養につとめ、他人から中心をはずして自己より偉大なるものに中心を高く定めなくてはならぬ・・・・成長の楽しみ、愛する喜び、敬うことの幸福。そこに、つまるところ、この理論が生命の法則をもとにして予見した三重の幸福がある。幸福の問題の完全な解決は、愛に満ちて、深化をつづける宇宙にひたすらつかえ、しかも深く愛することである。」(「現象としての人間」から。<ティヤール・ド・シャルダンはブログで2016年11月29日にアップした人で司祭で科学者である<写真>あり。是非、訪れて見られたし。>)