◆僕は一応、聖書について云々する方で、自分の言葉でその書かれたコトバを追求選とする方を神学者と呼ばせていただいている。で、掲題の方は、学生運動が盛んだったことから九州大学の滝沢克己氏と並んで、学生(学生運動された方)にはよく読まれてきた方ではなかったか。半世紀以上も前になるが、学生運動を神学校で経験された若い牧師の読まれていたものに彼の『イエスという男』があった。今も書店のキリスト教コーナーには必ず並んであるが、かなり過激と思われる文言が並んでいるから面白いと僕は思うが初めての方は要注意。彼の著作を一度、最近の本では文庫サイズにもなったので助かりだが、作品社からでた『新約聖書 本文の訳(携帯版)』の前書きでも立ち読みされるといい。清く、正しく、よく分かる・・・などという内容を求めている方が読むとひっくり返るような見解(口調といったらいいか)が並んでいる。自分が戦っているのは、人が神のコトバを読むという行為のこういうところなんだ、とはっきり分かる方だからである。◆彼の内容を知ろうとすれば、当然、世界のベストセラーの新約だけでも一通り読まれていることが前提である。まずは自分の言葉でです。いきなりこの方にぶち当たると面食らいます。しかし、学問的には非常に優れた方です(などとおこがましくも書きました)。聖書の訳の更新が行われ、新解約聖書2017とか聖書協会共同訳などがでましたが、学問的に部分的に彼の訳が採用されているところなどもあったりしますが、先に書いた理由などからと推測されるのですがその訳の委員になったりしてはいないようです。彼が訳の批判をするのに、彼のような解釈(訳ではなく、あくまで解釈という段階で)は、僕は賛成できないなぁという点は確かにありますが、次回。 ◆***携帯版から「はじめに」から一部を紹介します。***「新約聖書と呼ばれたきた書物は、本当はもちろん『聖書』ではない。こんなことは誰でもよく知っているはずのことである。自分個人の制約と欠点も抱えて生きている、その人間が書いた文章が『聖書』、つまり超越的神的に絶対的な書物、一言一句いかなる欠点もなく、崇高で超越的な神の言葉なんぞあるわけがない。・・・誰でも知っているこの事実を正直に確認することからはじめるのでなければ、我々は、歴史上『聖書』と呼ばれてきた文書集の実体を正確に理解することはできないのである。・・・・(続く)」