ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

長野県佐久市今井にある小諸発電所第一調整池では、ホシハジロなどの水鳥観察を楽しみました

2019年12月18日 | 旅行
 長野県佐久市今井にある小諸発電所第一調整池にマガモなどの水鳥観察に行った時に、人気が高いミコアイサなどに運良く出会いました。その話の続きです。

 この小諸発電所第一調整池は、千曲川と滑津川の合流点にある大きな遊水地です。



 千曲川の川幅はかなり広いです。

 この“小諸発電所第一調整池”は、昔、長野県にあった地方の発電会社が、千曲川や滑津川から水を取り入れて、下流にあった小諸発電所に水を送って発電していた調整池の名残りです(その後に東京電力に買収されているようです)。

 小諸発電所第一調整池は、いくらか変形した(いびつな)五角形の大きな池にです。

 この小諸発電所第一調整池では、一番多く住み着いているのはカルガモです。カルガモは広い範囲に分散して過ごしています。



 カルガモたちは、お互いに距離を保って、分散しています。

 カルガモとコガモ(のオス)も、割と近くで過ごしていました。



 頭の部分が茶色の羽根模様になっているホシハジロのオスです。カルガモの群れの中に、1羽のホシハジロが浮かんでいます。



 遠くの水辺では、ホシハジロのオスなどが飛び上がりました。水面の上を旋回して飛んでいます。





 水面から飛び上がる動作を始めたカモの仲間です。この“カモ“の種類は不明です。

 水面を蹴って飛び上がるための助走に入る動きを見せているカモ類の1羽です。



 小諸発電所第一調整池は、川幅がかなり広い千曲川沿いに位置しています。

 小諸発電所第一調整池の横にある千曲川は、南東から北西方向に流れています。その西側の先には北アルプスの峰嶺の白い冠雪が見えています。



 槍ヶ岳の尖った独特の山頂部が見えています。





 小諸発電所第一調整池のカモ類などを観察する、やや丘形状の部分にセグロセキレイが数羽、歩き回っています。





 小諸発電所第一調整池の南側には霧ヶ峰高原の中にある車山(標高1925メートル)がそびえています。



 車山の山頂はまだほとんで冠雪していません。冠雪すると、白い帽子をかぶったような姿になります。

 晩秋・初冬の青空の広がる天気の下で、小諸発電所第一調整池では、カモ類を中心に水鳥たちを観察しました。

長野県佐久市今井にある小諸発電所第一調整池には、美しいミコアイサが飛来しています

2019年12月17日 | 旅行
 長野県佐久市今井にある小諸発電所第一調整池は、千曲川と滑津川の合流点にある遊水地です。千曲川の方は川幅がかなりあります。

 この“小諸発電所第一調整池”は、昔、長野県にあった地方の発電会社が、千曲川や滑津川から水を取り入れて、下流にあった小諸発電所に水を送って発電していた調整池の名残りです(その後に東京電力に買収されているようです)。

 小諸発電所第一調整池は、いくらか変形した(いびつな)五角形の大きな池にです。



この小諸発電所第一調整池には、約4週間ぶりに訪れました。

 広大な小諸発電所第一調整池の中に、白い羽根の水鳥が10数羽、点在しています。広大な水面を進むミコアイサのオスです。

 巫女さんの白装束に似ていることから、「ミコアイサ」と呼ばれています。繁殖期に向けて、オスは白い羽根模様になっています。とても目立ちます。

 ミコアイサはカモ目カモ科アイサ属の水鳥で、オスは身体の大きさが44センチメートル、メスは平均39センチメートルです。

 白装束のオスのミコアイサは、点在して水面を進んでいます。眼の周りが黒いために、通称“パンダガモ”との愛称でも呼ばれてます。





 ミコアイサのオスは点在して水面を動き回っています。



 遠くの対岸に近い水面に、2羽のミコアイサもいました。



 水面を進むウミアイサではないかと推定される水鳥です。小諸発電所第一調整池の真ん中にいて、遠くからしか観察できません。





 数羽のウミアイサがそれぞれに進んでます。





 人工につくられた浮島の側では、マガモが集まって休んでいます。ここ小諸発電所第一調整池の主役です(カルガモが一番多いですが)。





 多くのマガモが首を羽根の中に入れて、寒さに耐えています。



 マガモたちは寒さ対策をとり、体温を維持しています。

 約4週間前に、この小諸発電所第一調整池に野鳥観察に行った話は、弊ブログの2019年11月22日編をご覧ください。


群馬県富岡市妙義町の北側にそびえている妙義山系の白雲山を眺めました

2019年12月15日 | 旅行

 群馬県富岡市の西側にある妙義町は妙義山系の麓の町です。

 午後2時過ぎに、富岡市の西側にある妙義町の北側にそびえている妙義山系の白雲山(標高は背後にある連山の相馬岳の1104メートル)は午後の西日によく照らされていました。





 白雲山の山頂部辺りの岩肌がよく見えます。かなり垂直に近い岩の壁です。





 翌日朝に、また白雲山を眺めました。午前の東側からの太陽光に照らされています。





 中腹にある富岡市立妙義ふるさと美術館まで上がり、目の前にそびえている白雲山の山頂部を眺めました。







 白雲山は、すっかり晩秋の風景です。厳しい初冬を待つ風景です。

 白雲山の少し西側の岩山です。



 この日は快晴のために、富岡市立妙義ふるさと美術館のすぐ下にある妙義神社には参拝客が多く来ていて、お参りをしていました。

 余談ですが、この北東側に、JR信越本線が東西に通っています。

 ここを訪れた日は、このJR信越本線沿いに、かなり大きな3脚の上に、一眼レフカメラを載せたカメラマンの方が点々と並んでいました。

 猛禽類の観察個所ではないのかと思い、「何を撮影しているのか」と、訪ねてみると、蒸気機関車(SL)の運航日なのだそうです。

 「C系」(番号は忘れました)を撮影するために、全国から“撮り鉄ファン”の方々が集まっているのだそうでした。



仙台市青葉区川内にある仙台城二の丸跡では、カエデの木が綺麗に紅葉しています

2019年11月29日 | 旅行
 仙台市青葉区川内にある仙台城二の丸跡では、カエデの木が紅葉し、サザンカの木が花を咲かせています。

 この仙台城(通称、青葉城)二の丸跡は、広瀬川の河岸段丘の上にあり、眼下を流れている広瀬川越しに、仙台市の市街地が望めます。江戸時代に仙台藩の行政は、この二の丸辺りで決められてたと推定できます。

 仙台城二の丸跡の端には、仙台城大手門脇櫓跡(やぐらあと)があり、仙台城の本丸への入り口という雰囲気が濃い場所です。



 この仙台城大手門脇櫓跡は、第二次大戦後にたぶん昭和時代に復元された建屋です。

 「仙台城二の丸跡」は、正確には東北大学川内キャンパスの西端にあり、この部分は市民に事実上は公開されています。散策路が公開されています。

 この仙台城二の丸跡には、東北大学百周年記念会館 (川内萩ホールも隣に建っています)という建物が建っています。





 この東北大学百周年記念会館に向かって、背の高いメタセコイアの巨木の並木が続いています。





 メタセコイアの巨木は赤茶けた紅葉をし、葉が落ちています。

 この仙台城二の丸跡の中には、ソメイヨシノなどの桜並木があり、葉が落ち始めています。

 仙台城二の丸跡には点々と植えられたカエデの木があり、葉が真っ赤に紅葉してます。





 メタセコイアやサクラの木々の間に、カエデの木が点々と植えられています。





 パラパラと植えられたサザンカの木が花を咲かせています。







 仙台城大手門脇櫓跡に近い部分に、支倉常長の銅像が立っています。木々に囲まれてあまり目立たない感じです。





 伊達政宗が慶長18年(1613年)に慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)として、支倉常長を副使としてメキシコ経由で派遣した経緯を思い出します。メキシコ経由で、スペインとイタリアに向かい、スペイン国王・フェリペ3世とローマ教皇・パウロ5世のもとに派遣された使節団です。

 実際には、この当時に日本からメキシコに渡るだけでも大変な船旅だったことと思います。

 仙台藩藩主の伊達政宗は、外国との海外交易によって、仙台藩を繁栄させたいと考えていたそうです。

 まったく目立たないのですが、東北大学百周年記念会館の裏側に三太郎の小道という散策路があります。

 この「三太郎の小道」はたぶん、今はもう忘れられた存在になっている気がします。

仙台市青葉区八幡にある大崎八幡宮の境内では、カエデの木などが見事に紅葉しています

2019年11月28日 | 旅行
 仙台市青葉区八幡にある大崎八幡宮の境内は、見事に紅葉したカエデの木などが鑑賞できます。

 大崎八幡宮(おおさきはちまんぐう)は国宝に指定された社殿を持つ神社です。

 戦国時代から仙台藩の総鎮守として伊達政宗をはじめとする歴代藩主から庇護されてきた神社です。

 本殿や拝殿の前に建つ長床の入り口です。



 入り口から見事なスギ並木の参道を進んで来て、10数段の階段を上ると、長床の前に出ます。



 この長床の奧に本殿や拝殿などが鎮座しています。

 実際には、関ヶ原の戦い前後から、仙台藩主の伊達政宗の寄進によって本殿や拝殿などが建てられました。本殿や拝殿などの建屋は安土桃山様式の絢爛豪華なものです。屋根は柿葺(こけらぶき)です、







 本殿や拝殿などの安土桃山様式の建屋は平成時代に大修復が施され、絢爛豪華さがよみがえっています。

 この大崎八幡宮の絢爛豪華な安土桃山様式を参考に、徳川幕府は栃木県日光市郊外に東照宮を造営した際に、安土桃山様式を用いたと伝えられています。

 本殿や拝殿などを囲む境内の参道では、カエデなどの木々がよく紅葉しています。





 周囲のうっそうとしたスギの巨木の中で、カエデの木がよく色づいています。



 本殿と長床辺りには、ニワトリが数羽、います。







 このニワトリは、神話時代に天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天の岩戸に御隠れになられて世の中が真っ暗闇となった時に、人々は困り果て夜明けを告げる「長鳴き鳥」(にわとり)の鳴き声を聞かせたという謂われから放たれているそうです。

 大崎八幡宮のルーツは、征夷大将軍の坂上田村麻呂が宇佐神宮を鎮守府胆沢城(現在の岩手県奥州市水沢)に勧請し、鎮守府八幡宮と称したことが始まりだそうです。

 その後、室町時代に奥州管領だった大崎氏が自領内の現在、宮城県遠田郡田尻町に移し、さらに伊達政宗が仙台市の現在の地に移したという経緯があります。