ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

2013年11月26日掲載の「第43回東京モーターショー2013」の話が読まれています

2015年02月28日 | イノベーション
 昨日2015年2月27日に、この弊ブログの閲覧数と訪問者数がいくらか急増しました。その原因を調べてみると、弊ブログに2013年11月26日に掲載した「2013年11月23日から始まった『第43回東京モーターショー2013』の番外編です」がよく読まれていました。

 その理由は、2015年2月27日に発行された日本経済新聞紙の朝刊一面に掲載された「ヤマハ発が四輪車 欧州で生産・販売」という記事の影響でした。

 日本経済新聞紙のWeb版である日本経済新聞 電子版には見だし「ヤマハ発、欧州で四輪事業 19年めど工場」として掲載されています。



 二輪車世界二位のヤマハ発動機は2019年をメドに欧州で四輪車事業を始めると、報じています。数100億円を投じて専用工場を建て、二人乗りの四輪車を製造・販売するそうです。低燃費の小型四輪車は“生活の足”として世界で需要が高まっているからだそうです。ヤマハ発動機は二輪車のノウハウを生かして、欧州市場に参入するそうです。

 2013年11月26日に掲載した「2013年11月23日から始まった『第43回東京モーターショー2013』の番外編です」では、ヤマハ発動機は第43回東京モーターショーで、小型四輪車の試作車「MOTIV(モティフ)」を公開したとお伝えしました。

その第43回東京モーターショーのヤマハ発動機ブースで公開された小型四輪車の試作車「MOTIV」です。



 2019年までに製品化して四輪車事業に参入する方針を表明していました。同社は2人乗りで排気量1000㏄のガソリンエンジン搭載車と電気自動車の開発を進めていると伝えていました。販売する地域は欧州を皮切りに、日本、アジアでの展開も視野に入れていると説明していました。

アントレプレナーシップセミナー「伝統産業に新価値創造」を拝聴した話の続きです

2015年02月28日 | 汗をかく実務者
 アントレプレナーシップ(起業家)セミナーとの冠をつけた「伝統産業に新価値創造!新たな『市場』を生み出す取り組み」という講演会を拝聴した話の続きです。

 この講演会に登壇した株式会社和える(あえる、東京都港区)の代表取締役の矢島里佳さん(2015年2月27日編をご参照)に続いて、株式会社せん(秋田市)の代表取締役の水野千夏さんが事業化している内容をお話しされました。

 株式会社せんの代表取締役の水野千夏さんは、「あきた舞妓」の事業化を2014年8月から始めました。単なる舞妓の復活事業かと最初は思いましたが、その動機は秋田市の再生という志(こころざし)の高いものでした。このため、秋田市の商工会議所などのメンバーが応援団になっています。



 水野さんは故郷の秋田県・秋田市(水野さんの生まれは秋田県の別の市ですが秋田市で育っています)の人口が年々減少しており、このままでは将来、秋田市が消え、そこに根付いた文化も消滅すると感じました。このため、故郷の秋田市に強い観光資源を再生し、秋田市が再び栄える道を考えました。そこでたどり着いたコンセプトは「秋田美人」という言葉でした。その秋田美人の再生を具現化したものが“あきた舞妓”という事業でした。

 秋田市には美味しい食べ物や素晴らしい観光資源があるにもかかわらず、人口が減って少しずつ寂れていっています。そのためには、県外から人を呼ぶ仕掛けをつくろうと考えます。調べてみると、秋田市の繁華街・歓楽街は以前、川反(かわばた)芸者という接客業の方々がいて賑わっていました。これを再生し、秋田市の観光の目玉にするという発想でした。

 水野さんは高校卒業後に上京し、神奈川県内の大学で学び、そのまま化粧品会社に就職します。しかし、将来もこのまま首都圏で生活することがイメージできず、約1年で秋田市にUターンし、観光業の会社に就職します。そこで秋田県・秋田市の魅力を考える内に、秋田市に観光客を呼ぶ仕組みが足りないと思ったそうです。

 そこで“あきた舞妓”事業を考えつきます。一般には舞妓や芸子(芸妓、げいぎ)は、従来のお茶屋制度によって若い女性に芸事を仕込んで一人前にします。これを、芸事を学んだ若い女性のコンパニオン的な“会える秋田美人”という派遣業として復活させます。“会える○○”はAKB48の影響でしょうか・・

 派遣条件は「1時間、2名からで、1時間当たり舞妓1人当たり1万円(プラス消費税)」と明解です。通常のお座敷派遣と同時に、観光イベントや企業広告イベントなどへの派遣も対応しています。派遣の際には、舞妓の指名はできない仕組みです(この辺が伝統とは異なります)。

 現在、“あきた舞妓”は3人います。



 この3人の募集の仕方が賢かったです。2014年4月14日に、水野さんは事業会社「せん」を設立し、その記者会見を開催します。記者会見によって、創業したばかりの会社の事業内容を地元のマスコミを通じて広報します。同時に、あきた舞妓のなり手を募集します。

 このあきた舞妓の募集が当たって、約30人も応募してきます。「舞妓になりたい」という志願者は不採用にし、「秋田観光を盛り上げたい」という意志を表明した3人を採用します。この3人に踊りや三味線などを学ばせています。「このお稽古事の費用が馬鹿にならない」と解説します。

 秋田市に人を呼び込む仕掛けの“あきた舞妓”事業は、秋田県・秋田市では話題を呼び、その事業のサポーターが増え、観光イベントなどに呼んでもらうことが増えているそうです。現在は、“あきた舞妓”の常設館も開設する計画を練っています。

 若い女性が秋田市の魅力を“温故知新”によって発掘・再生する事業は、地元で共感を呼び、順調に事業がスタートしたようです。起業の時は、起業目的を明確にすることが基本と感じました。

アントレプレナーシップセミナーで伝統工芸に新価値を与える講演を拝聴しました、

2015年02月27日 | 汗をかく実務者
 アントレプレナーシップ(起業家)セミナーとの冠をつけた「伝統産業に新価値創造!新たな『市場』を生み出す取り組み」というタイトルの講演を伺いました。

 当初は、このタイトルから、お役人が支援するような建前的な態勢の話を想像していました。実際には中身がしったりしたいい話でした。

 この講演では、株式会社和える(あえる、東京都港区)の代表取締役の矢島里佳さんと株式会社せん(秋田市)の代表取締役の水野千夏さんのお二人が登壇しました。偶然ですが、お二人ともに26歳という若い起業家です。



 この講演会は慶応義塾大学藤沢キャンパスにある應藤沢イノベーションビレッジと経済産業省傘下の中小企業基盤整備機構が主催したものです。若い起業家の方々が新規事業お越しに励んでいる実践例を示すことが目的のようです。

 代表取締役の矢島里佳さんは和服姿で自社の事業モデルを語ります。



 日本の伝統工芸の良さを和服で表現しています。分かりやすい言葉で、考えを伝えます。

 和えるは、日本各地の伝統工芸品を良質な製品として企画して販売する事業を展開しています。たとえば、幼児が離乳食を食べ始める時の食器として、愛媛県の砥部焼という陶器製と徳島県の大谷焼という磁器製、石川県の山中漆器の3種類の食器を販売しています。

 その特徴は、陶器も磁器も漆器も形状デザインは同じで、食器の内側に“返し”と呼ぶわずかな出っ張りを設け、幼児がこぼしにくいデザインにしています。飽きがこないシンプルなデザインで、日本の伝統工芸の良さを表現しています。

 想像ですが、少子高齢化が進む日本では、両親や両方の祖父・祖母は伝統工芸として磨かれた良質な食器を子供・孫に与えたいというニーズに答えています。

 株式会社和えるが販売する代表商品は、藍染めの産着(うぶぎ)、ファイスタオル、靴下の3点セットを桐箱に詰めた“出産祝い”セットです。定価は2万5000円(税別)です。

 幼児のころから、日本の伝統工芸である藍染めを身につけて育った子供は、日本の伝統工芸の良さを肌で感じ「日本のホンモノの価値観を持つだろう」と伝えます。日本の藍には「抗菌作用や紫外線の遮断、防臭、防虫などの優れた性質を持っていることを伝え、藍染めの伝統を後生にも伝えたい」とも語ります。

 この“出産祝い”セットは最初の商品であり、株式会社和えるの代表商品に育っているそうです。

 代表取締役の矢島里佳さんは慶応大学の学生だったころに、ビジネスプランコンテストで2009年、2010年に入賞し、自分の考えた日本の伝統産業を基にした事業化を図ります。財団法人東京都中小企業振興公社が主催した2010年のビジネスプランコンテストでは「学生起業家選手権」優秀賞受賞を受賞します。そして、日本各地にある伝統産業の製品の価値があまり市場として受け入れられないという事実を知り、その市場価値を再生する事業を始めます。

 そして、2011年3月16日に株式会社和えるを設立します。現在、資本金は500万円です。創業当時は製品を全品買い取る仕組みを貫いたために、事業資金が不足する”黒字倒産”の危機にも面したそうです。

 現在は、直営店「aeru meguro」を東京都品川区に出店し、さらに今年は京都市にも直営店を設ける計画です。事業運営の安定化に努めているようです。

 この続きは次回になります。

埼玉県深谷市にある渋沢栄一生地「中の家」の食事処で、煮ぼうとうをいただきました

2015年02月26日 | グルメ
 埼玉県深谷市血洗島(ちあらいじま)にある埼玉県指定旧跡の“渋沢栄一生地”“(しぶさわえいいちせいち)の一つである旧渋沢邸「中の家」に立ち寄り、郷土料理の煮ぼうとうをいただきました。

 “日本資本主義の父”と呼ばれる渋沢栄一などの一族が住んだ渋沢家の住宅である旧渋沢邸「中の家」を見学しました。

 東門と呼ばれる入り口です(医薬門という形式だそうです)。門の奥に主屋がいくらか見えます。



 東門から中に入ると、主屋(おもや)の前に出ます。



 東門から敷地内に入って東側にある土蔵と土蔵の間に、正門があるそうです。

 その東側にある立派な土蔵群です。土蔵の脇に植えられたハクバイ(白梅)の木は少し花を咲かせています。



 この土蔵と土蔵の間に、正門があり、その奥に“座ダイニング”と名乗る「青淵亭」という食事処があります。

 この食事処に入って「お薦め料理は何ですか」と聞くと、「郷土料理の煮ぼうと」という返事だったので、その煮ぼうとうを注文しました。

 その煮ぼうとうです。



 「地元の採りたて野菜がたっぷり入っている」と、うたっています。ヒモカワのような平べったい麵と一緒に、ニンジンやナガネギ、サトイモ、ハクサイ、ナノハナどに、いろいろなキノコが入っています。

 煮ぼうとうの汁は、ややあっさりした味で、個人的には少し物足りない味でした。どんぶりの中の煮ぼうとうは、量的にはかなりあります。最後の方は少し飽きてしまいました。

 注文した煮ぼうとうセットは・稲荷寿司2個に、サラダ、小鉢、香の物という組み合わせです。記憶では、定価は1000円です(たぶん消費税込み?、覚えていません)。

 深谷市は煮ぼうとうを郷土料理として観光の目玉として売り出しています。深谷市周辺の埼玉県の各市町村は、良質な小麦が採れたことから、うどんやほうとうなどが郷土食になっています。

 現在残っている「中の家」は、渋沢栄一の妹のていと結婚した渋沢市郎が明治28年(1895年)に建て直したものです。渋沢栄一が産まれた当時は、藁葺(わらぶき)の家だったそうです。渋沢家は裕福な農家で「名字帯刀」を許されていた名家です。養蚕や藍玉(あいだま、藍色の染料材料)などの事業で儲けていたようです。

 渋沢栄一は、江戸時代末期の文久3年(1863年)に中の家を出て、江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけて、日本の武士(幕臣)から明治政府の官僚になり、さらに実業家になって第一国立銀行や東京証券取引所などといった日本の資本主義の礎を築いたそうです。今回、知って驚いたことは、渋沢栄一が理化学研究所の創設者であることでした。すごい先見の明のある方だったのです。


埼玉県深谷市川本の荒川河川敷で、あこがれのミコアイサを見かけました

2015年02月25日 | 季節の移ろい
 埼玉県深谷市川本の荒川河川敷の“白鳥飛来地”に、またコハクチョウを見に行きました。

 深谷市は鳥インフルエンザ対策として、ここに飛来したコハクチョウなどの水鳥にエサを与えることを禁止したために、コハクチョウの群れは荒川の上流側や下流側に分散して住んでいます。

 今回は川本の荒川河川敷より少し上流側に、10数羽のコハクチョウが水面を泳いでいました。





 コハクチョウの群れを観察していると、カルガモなどのカモ類の群れがどこからか飛んできました。





 20羽程度のカモ類が着水した辺りを見ていると、白い水鳥が1羽、着水したことに気がつきました。ミコアイサのオスです。





 ミコアイサは優雅に泳いでいます。



 この近くで、水鳥観察している数人の野鳥観察愛好家の方に伺うと、「ミコアイサのオスは1羽住み着いていて、日によって上流側から下流側に時々移動している」と、教えていただきました。さらに、ミコアイサのメスも数羽飛来しているとのことでした。

 このコハクチョウがいる水辺には、カルガモやオナガガモ、ヒドリガモ、キンクロハジロなどが多数、泳いでいます。キンクロハジロの群れはなかなか綺麗に見えます。