小島教育研究所

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英雄アイルトン・セナが愛したF1。1994年5月1日は決意の日でもある。(Number Webより)

2020-05-02 | F1
F1界にとって5月1日は、“タンブレロの悲劇”の日として、記憶されている。

 いまから、26年前の1994年。イタリア・イモラで開催されたサンマリノGPで、3度のワールドチャンピオンを獲得し、'80年代後半から'90年代前半にかけてのF1で、絶大な人気を誇っていたアイルトン・セナが、レース中にイモラ・サーキットの高速コーナーである“タンブレロ”で、原因不明のトラブルに遭い、コンクリートウォールにクラッシュし、34歳の若さで還らぬ人となった。

26年前の5月1日を忘れない。特選写真で振り返る、音速の貴公子アイルトン・セナ。

 当時、最も人気のあったドライバーがトップを快走中に事故死するという衝撃は、モータースポーツ・ファンだけでなく、普段レースとは縁遠い一般の人々にも大きな悲しみを与えた。

 世界中のテレビや新聞がトップニュースでセナの死を伝えた。日本もその例外ではなく、'87年から6年間、一緒にレースを戦ったホンダの東京・青山にある本社には全国から約4万5000人のファンが駆けつけたほどだった。

 もちろん、セナの母国ブラジルは、さらに深い悲しみに包まれていた。セナの遺体を乗せた飛行機が帰ってくると、空港から埋葬される墓地までの道路には、約120万人もの市民が繰り出し、母国の英雄の死を悼んだ。
その前日にも、2週間後にも。
 セナが亡くなった'94年のサンマリノGPとその次に開催されたモナコGPでは、ほかにも悲劇が起きていた。セナが亡くなる前日の4月30日の予選では、ローランド・ラッツェンバーガーがマシントラブルに見舞われて、コンクリートウォールに激突し、死亡。2週間後のモナコGPではカール・ベンドリンガーがフリー走行中にクラッシュし、頭部を激しく打ちつけて昏睡状態に陥り、病院で生命維持装置を付けられるという痛ましい事故も起きていた。

「もう、死のレースはたくさんだ」

「サーキットの黒い週末」

 世界中のメディアの多くもセナの死を悲しむと同時に、F1の安全性を批判していたものである。

安全性向上へ動き出したF1。
 あのころ、F1はある意味、存亡の危機に直面していたといっても過言ではないほど、緊張状態に包まれていた。

 それでも、F1が生き続けてきたのは、不世出の天才の死を教訓にして、さまざまな改革を行いながら、安全性を向上させてきたからにほかならない。5月1日は悲しみの日であると同時に、F1が安全性を一層向上させようと、決意を新たにした日でもある。

 セナの死後、F1はエンジンの出力に制限をかけ、コーナーリング速度を落とすために空力に関してさまざまな規制を設けてきた。
頭部のケア、サーキット修正も着手。
 ドライバーの頭部周辺の保護にもさまざまな対策が導入された。

 まず'96年からコクピットにヘッドプロテクター装着が義務化された。現在、すべてのF1ドライバーが着用しているHANS(頭部及び頸部保護)デバイスは、セナの死をきっかけにF1でも'90年代後半から導入を真剣に考えだすようになり、2003年に初めて導入された。HANSは、急減速しても頭部が前方に投げ出されないよう固定する安全装置だ。

 またヘルメットにもメスが入れられた。それまでのヘルメットのシェル(帽体)の素材はFRPと呼ばれるガラス繊維などをプラスチックと混合させることで強度を上げた繊維強化プラスチック材が使われていたが、FIA(国際自動車連盟)の強度試験の設定が厳しくなり、セナの事故から10年後の'04年にはフルカーボン時代へと突入した。

 これらの安全性向上は、セナが頭部と頸椎に大きなダメージを負って亡くなったことを意味していた。

 さらにFIAはサーキットの安全性向上にも務めていく。セナが命を落としたタンブレロ・コーナーは、コースの外側に川が流れているために、ラン・オフ・エリアが十分に設けられていなかった。そこでFIAは主催者に命じて、タンブレロでコースが内側に曲がるようなシケインになるよう改修させた。
死と隣り合わせに変わりはない。
 こうした安全性向上によって、F1はその後、20年にも渡って、死亡事故からドライバーたちを守ってきた。これはF1の歴史の中でも最も長い幸福の時間でもあった。

 しかし、モータースポーツがスピードの限界を極めるスポーツである以上、死と隣り合わせのスポーツであることに変わりはない。'14年にはジュール・ビアンキが事故に遭い、翌年死亡。'19年にはベルギーGPの前座として開催されていたF2でアントワーヌ・ユベールが多重事故に巻き込まれ、22歳の若さで亡くなった。

 FIAの安全性向上に終わりはない。

ウイルスを前にしても歩みを止めない。
 セナの死から26年。今年の5月1日は、本来であれば、オランダGPが開催される予定だった。しかし、F1は開幕戦から中止と延期が続いており、オランダGPも延期となった。F1だけでなく、世界はいま、新型コロナウイルス感染症によって、厳しい状況が続いている。

 それでも、F1は未来に向けて歩みを止めてはいない。これまでモータースポーツの安全性向上に努めてきたF1は、いま、新型コロナウイルスとの格闘中だ。

 イギリスに本拠地を構えるチームのエンジニアたちが、新型コロナウイルス感染症の重症患者の治療に使われる新しい医療用人工呼吸器をF1以外の企業と協力して開発すれば、イタリア・チームのフェラーリも人工呼吸器用バルブと、防護マスク用の接続部品の生産を関係する企業との協力を開始した。

 セナが愛したF1は、いま世界の人々の命を救うために戦い続けている。

以上

 あの日からF1レースは一切観戦しなくなった。爾来26年。昨期、F1でホンダが久々に勝利したとのニュースがあった。ホンダの復活。新型コロナウィルスの影響でF1の開催もままならないが、アフターコロナでは、F1を応援する日が来るだろう。セナの時代から四半世紀。レギュレーションも大きく変化した。スピードとともに燃費効率も問われるようになった。そこに時代の変節を感じる。



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ホンダがF1に復帰して4年、今期13年ぶりに勝利。来年度以降が楽しみだ。

2019-12-22 | F1
1965年のF1メキシコグランプリの初勝利から51年目の今年。
ホンダF1のエンジン開発責任者、浅木泰昭さんは次のように語る。
「レースはホンダのDNAです。このまま撤退したら、若手エンジニアがダメになってしまう。何としても彼らに成功体験を積ませて、次につなげたいと思ったんです」。
1980年代後半から90年代前半にかけてはパワーのあるエンジンを武器にライバルを圧倒。1988年には年間16戦中15勝の快挙を成し遂げる。「絶対王者ホンダ」の活躍に、日本中が熱狂した。

ホンダが苦しんだ要因。それはリーマンショックによる業績悪化でF1から撤退している間に、レギュレーション(ルール)が大きく変化したことだ。

F1のレギュレーションは、「とにかく速く」から、ハイブリッドシステムが義務化され、「限られた燃料で、いかに速く走るか」に変わっていた。ホンダの技術は、この変化に追いついていなかった。

今シーズンのF1。ホンダはなぜ勝てるようになったのか。浅木さんは、組織の垣根を越え、いわば“オールホンダ”で取り組んだ成果だと打ち明ける。

ホンダが直面していた問題は、エンジンの主要部品の破損。1分間に最大で12万5000回回転する「シャフト」が、エンジンを動かすたびにめちゃくちゃに壊れていた。浅木さんたちだけでは、これをどうしても解決できなかった。

そこで浅木さんが相談したのは、ホンダジェットの開発チーム。何度試しても解決できなかったこの問題を、彼らは「1発で解決した」という。より耐久性が求められるジェットの技術が生かされたのだ。

縦割りの組織の壁を取り払い、ほかの部署からも協力を得たことで、完成度の高いエンジンを作り上げた。


出典 NHK ビジネス特集 「復活!“猛獣使い”が率いるホンダF1チーム」より抜粋

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