小島教育研究所

教育関連ブログです。数学を筆頭に学問全般に渡る有用な情報を提供致します。
東海生、名高生、半高生に最も読まれています。

代数幾何分野における、日本人の活躍。

2011-07-29 | 数学研究

筆者の専門は解析学であるので、代数幾何については、明るくはありません。

しかし、ここ日本では、伝統的に代数幾何の研究が盛んです。

フィールズ賞の受賞者をみても、小平邦彦氏、広中平祐氏、森重文氏と、すべて代数幾何のエキスパートです。

広中氏の論文を松下幸之助記念図書館(慶應義塾大学理工学部)にて目にした私は、そのあまりの長大さに驚きましたが、全体を通してアイデアは平明でした。多くの先達の挑戦を跳ね除けてきた難問を解決した広中の大定理。そのときには、この定理が何かの応用に資するなどとは、失礼ながら思いも付かなかった。後年、学習理論において、この広中の大定理が応用されるのを目にして、どこで応用されるか、証明とか、発見した当人は気が付かないのに、後の世代の人は、優れた応用を考えるものだと、感心した次第です。数学にはこうしたことがえてして起こりやすい。他の例では、ガロア理論(有限体理論)を応用して、誤り訂正理論を形成し、CD、DVDのコレクト機能を実現していることが挙げられる。

一方、森重文氏による双有理幾何学の建設に関して、極小プログラムは三次元までは、森氏自身により完成をみた。これを一般次元まで拡張することが長らく試みられてきたが、ようやく2006年ごろ、ショクロフ氏等により、一応の完成をみたとされる。もちろん、森重文先生のお弟子さんの、藤野修氏等の果たされた役割も見逃せず、筆者などは昨年度のインドにおけるICM(国際数学者会議)で、20年ぶりに日本人のフィールズ賞受賞かと、密かに期待していた。それはかなわぬことでしたが、代数幾何の伝統が、広中平祐先生から森重文先生へ、さらに森先生から藤野修先生へと、着実に受け継げられていることに、伝統の重みを見る思いです。

森重文先生は、優れた研究者であるとともに、優れた教育者であると思います。この4月より、RIMSの所長にも就任され、今後のご活躍がまた一段と楽しみです。


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インターネット前夜の頃、徳田英幸先生に聞くCMU(キャンパスネット)の秘密。

2011-07-26 | コンピュータよもやま話

みなさん、インターネットが身近になって便利になりましたね。何億台の端末があっても、たちどころに識別して、メールも簡単に送れますし、携帯電話もすぐ繋がりますね。

以前、各会社にはコンピュータ専門の部門があり、社内のコンピュータ資源の管理は彼らに任されていました。(もちろん、今でもそうでしょうが)しかし、決定的に今と異なるのは、管理する対象の端末数が驚くほど異なることです。1980年代初頭まで、一人で管理できる端末はせいぜい20台くらいまででした。例えば端末が2000台あるとすると、約100名のコンピュータ要員が必要とされていました。これは、なかなかいい数字で、金融機関はこれを元に、要員数をきめていたのではと思われます。また、コンピュータネットワークも、商用では2000台くらいの接続が限界かといわれてきました。ミニコン界の雄、DECの社内ネットとして有名だったDETネットも2000台のコンピュータが繋がったものです。また、キャンパスネットワークとして有名だった、MITでも学内の端末は2300台位が限度でした。

そんな折、キャンパスネットワークで、CMU(カーネギーメロン大学)は6700台が繋がっているという情報に、調査目的でCMUを訪れました。対応に表れたのは、なんと日本人ではないですか。1980年代末1990年まで残すところわずかな時期、破格の6700台の端末を管理している要員数を尋ねると、「自分を入れて4名です。」とまた人を驚かす、極小人数!!その秘密を再び尋ねると、新たな端末を接続すると、どこにどんな端末が接続されたか自動的に管理する「ネームサーバー」のおかげで、4名でなんとか管理できているのですよと、その日本人の方に、親切に教えていただけました。「ネームサーバー!!」コンピュータのネットワーク空間を一元管理するのに、人手ではなく、機械(サーバー機)を利用する点がまず優れており、新たな端末の接続まで監視プログラムで管理するその手法の見事さにあっけに取られていました。

今日のインターネットを支えている技術の中で、パケット・通信その他の優れた技術が数ある中で、このネームサーバーが最も優れた発想、技術だといまでも思うのは、私だけではあるまい。

せっかく日本から来たのだからと、ささやかな歓迎レセプションを開いてくださり、素敵な夕食会を楽しむことが出来ました。

話を聞くと、なんと自分と同じ大学出身ではありませんか。CMUにこられて、5年ほど経過していること、最近お子さんが(当時3歳?)がマッキントッシュで絵を描いたり、作曲ソフトで音楽を造ったりしてしている姿を見ると、頼もしい反面、どんなものを子供に与えたらよいのかを、大人が真剣に考えないといけない時期にさしかかっていますね。コンピュータは今も昔も、そしてこれから先も我々に夢と希望を与えてくれるいい道具だと思います。概ね、以上のようなお話をしてくださいました。

当時、CMUでは分散OS、MARCH(マークと発音する)を研究開発しており、彼、徳田英幸氏はその研究をここCMUでなされていた。

後年、インターネットが爆発的に普及するにおよび、改めて、「ネームサーバー」機構の技術的発想の見事さに感心した次第です。

我々絵がCMU訪問してまもなく、徳田先生はSFCに助教授として着任された。また徳田先生は、IBMより日本人初のAwordを受賞されたことも記憶に新しい。

徳田先生たちグループの発想が、今のインターネットの技術を支えているのです。

 


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ヴィラ=ロボス(ブラジル)

2011-07-23 | 音楽の楽しみ

ブラジル風バッハ第9番フーガはいかがでしょうか。ブラジルを代表する20世紀の偉大な作曲家、ヴィラ=ロボス。生涯に1000曲以上の作品を残しています。(このあたりも、Bachに限りなく近いですね。)

南米的な土俗的、情熱的な面とBachに学んだ、ヨーロッパ古典派から吸収した技法とが、ヴィラ=ロボスという優れて個性的でかつ優秀な作曲家によって見事に融合、再構成されて誕生した曲。それがブラジル風バッハ第1番から9番。

貴方に、新しい音楽の魅力を伝えてくれるでしょう。

しばらく、ブログ記事をお休みするかもしれません。

次回またお読みいただける日を楽しみにしています。

See You!!

 


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インターネットの父とピンク・レディー?

2011-07-23 | コンピュータよもやま話

日本のインターネットの父と呼ばれるのは、慶應義塾大学湘南藤沢、環境情報学部、村井 純教授のことである。

村井教授の父君、村井 実氏は同じく慶應義塾大学文学部教授で、教育学の大家である。

純氏が小学生のころは父君の勤務(ハーバード大学)のため、家族でボストンに在住していた。当然、英語は堪能である。本人によれば、ガキの英語で、もう一度リファインする必要があると、学部時代、英語学習のし直しをしていた。

学部から大学院に進学したころ、イリノイ大学からUNIXを携えて、斉藤信夫教授が慶応義塾理工学部に赴任された。それまでの指導教官は中西先生であったか、斎藤先生へと指導教官の変更を行った。後年、純氏はUNIXの大家として「プロフェッショナルUNIX」をアスキー出版から出版し、UNIXの普及に少なからず貢献した。

もともと慶應義塾の数理工学科ではDEC社のPDP11を研究用に導入していた。OSのBLISSはUNIXライクなオペレーティングシステムであり、今流行のLINUXのご先祖さまといったところである。

 

話は、横道にそれるが、C言語も、ケン・トンプソン氏がPDP9用に『スペースゲーム』を移植したいがために生んだ言語である。

このPDP9は、かのマイクロソフトのビル・ゲーツ氏が高校時代アルバイトをしたときに使ったミニ・コンピュータででもある。

話を元に戻そう。

その村井氏が中心となって慶應義塾大学工学部矢上キャンパス構内にコンピュータネットワークを張り巡らし、次いで東工大、東大大型計算センターを通信でつなぐ相互接続実験を開始した。(1980,81年頃)

これが今に繋がるインターネットのご先祖様であることを知る人は少ない。相互接続の希望が各大学、研究所で増え始め、しばらくはJUNET(Japan Univercity NETwork)として、緩やかにネットワークは増加した。ジュンネット、あるいはジュネットといわれたこのネットワーク。見事に自分(純、Jun)の名前を入れているのはさすがです。

その後のWIDEプロジェクトを経て、めでたくインターネットが一般に公開されたのが1995年でした。

そういった意味で、「インターネットの父」といわれても、何ら不思議ではありません。

岩波新書から「インターネット」と「インターネットⅡ」(村井純)が出版されていますので、興味、関心のあるかたは、一度是非お読みください。

 

学部時代、そんな、彼が東大の駒場祭に特別出演するという。「機材運びを手伝ってくれないか。手伝ってくれたら、御礼にピンクレディーに合わせてやろう。」と言う。私と現在K大付属の数学教師のM君が協力することとなった。朝6時に日吉キャンパスに車を乗り入れ、約2トンの機材を載せて、いざ東大駒場へ。指定された教室に機材を運びいれ、セッティングのお手伝い。終わると缶ビールを4本くれて、演奏準備に入った。

出演するグループのリードボーカル兼リードギター奏者が村井 純君でした。

グループ名は「小田急沿線ブルース愛好会」というもので、LPレコードも当時すでに5枚発売していました。

(LPレコードは、いまではCDと言ったほうが分かりやすい。)

なかなかのハードロックグループで、歌も演奏もプロ顔負けであった。

ピンクレディーにあわせる約束を確認すると、「こちらが、我々の前座で歌ってくれる、ピンク・ベティーの皆さんです。」と女性2名のグループを紹介された。ピンク・ベティーか。まそれもよしか。ほろ苦いビールを飲みながら、彼らの演奏と、ピンク・ベティーの歌を聴いていました。

 

(疲れからか、誤字脱字が多くて、訂正しました。御寛恕のほど、宜しくお願いいたします。)

 


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中学時代、数学のI先生との出会いがあり、数学開眼する?

2011-07-23 | 日記

中学時代、二年生、三年生の数学1と数学2をそれぞれI先生に習った。(通常は数学1と数学2は二人の先生が教える。数学1が代数、数学2が幾何だった。)一見こわそうな風貌のI先生でしたが、授業はとても分かりやすく、何を質問しても、的確な答えがすぐに得られ、先生の博識に驚いていました。あるとき、「先生、いろんなことを良くご存知ですが、どこの大学のご卒業でいらっしゃいますか?」と質問したところ、「東京帝国大学工学部です。いろいろあって、戦後しばらく公職追放されていたんですが、現校長のN先生がうちの学校に来て数学を教えてくれないかと依頼され、こうして君達を教えているんだ。」先生は太平洋戦争時、陸軍に所属し、中国戦線で活動しておられた。その当時の軍事行動が戦犯として取りざたされ、しばらく公職を追放されていた。復職ままならず、故郷に帰り実家のお手伝いをされていた。当時の私は、その先生にとてもあこがれていた。代数、幾何の問題集で解法が分からぬものがあると先生によく質問していた。その質問にたいして先生はいつも丁寧に対応してくださり、わかり易く教えていただきました。「思い切って、先の先まで勉強してみると、自分の立ち位置が客観的に良くわかることがある。基礎も大事だが、どこが基礎で、何が大切かが自分で認識できるようになることが大切だよ。」とさりげなく、激励されることが多かった。以来、数学はとても好きな科目となった。特に、幾何の証明を習ったあたりから、数学が面白くなったように記憶する。後年、自分自身が教壇に立つようになっても、私は常にI先生を意識している。「先生ならこうやって教えてくださるだろうな。」と思いながら、授業をしている。

そのI先生、テスト返却のときに一つ癖があった。返却時首をすこし傾けると「あ、どこかでミスったな。満点でないな。」手にするとやはり一箇所ミスがあり98点とかであった。ただ普通に返却してくださるときは、「ノーミス。満点だ。」

少しいイヤミに聞こえますか?

こうして、数学に関して、優れた指導者に恵まれたおかげで、以後満点を定期試験、実力試験、模擬試験を連発することとなった。

中学時代満点がとれなかったのは2回だけ(?)だったと記憶する。なぜならI先生の首は2回しか傾かなかった。

やっぱりイヤミに聞こえますね。

 

わかり易く授業をすすめ、皆さんが満点をとることを常に願っています。

頑張ってください。

 


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第一志望を譲らず、栄冠を目指し、志望校を母校としよう。(受験生夏の陣)

2011-07-22 | 大学受験

大学受験生にとって、実力を飛躍的に伸ばすのに絶好のチャンス。それが夏休みです。

手短に、アドバイスを述べます。

 1.全体のバランスを考えて、計画を立てよ。(計画のないところに、成功はない。)

 2.得意科目をどれだけ伸ばすか。

 3.不得意科目をどれだけ実力UPさせるか。

 4.有限な資源(時間、金、知能)をどう組み立てて、最大の成果が上がるかを常に意識せよ。

 5.平均的な受験生の得点源は、自分も得点源とせよ。

 6.易しい問題で遅れをとるな。

 7.あと少し、頑張れば出来るところで、部分点を稼げ。

 8.二次試験では、はやる心を抑えて、解法の選択に時間をとれ。

 9数学の答案は下書きなしで、アウトラインを明確に、逐次作成せよ。(時間切れでも、部分点がもらえる工夫をせよ。)

10.数学では、図、表を有効に使って説明せよ。

11.英語力は国語力であるとの認識をもて。

12.英単語、英熟語、いくつ覚えればよいですか? → 可能な限り、多く覚えよ。

13.英単語、英熟語で定評のあるものは? → 森一郎先生の「試験に出る英単語」「試験に出る英熟語」が今でもバイブル。

   (東大入試、難関校入試の定番。他にも色々なシリーズがありますが、他をあげれば、鉄緑会の「東大英単語熟語」鉄壁ですね。)

14.現代文は出口先生の「現代文講義の実況中継」(上・中・下)語学春秋社に決まりですね。

   現代文の出題とはどうゆう事かの本質が良くわかります。

15.御用とお急ぎの方は、荻野先生「マドンナ重要古語230」(学研)と文語文法、助動詞、助詞の識別が重要ですね。

16.古文は「古文研究法」(小西甚一先生)洛陽社。これ一冊やれば文系二次試験もOKか?

  (学生時代、しっかりこの本を読んだおかげで、大抵の古文は何もなしで、すらすら読めますね。)

17.物理は橋元先生の「物理の大原則Ⅰ、Ⅱ」(学研)と「難系」(ニュウトンプレス)で決まり。

   復刻本で「親切な物理上下」が最近は入手できます。十分今の大学入試をカバーしています。

18.化学は、卜部(うらべ)先生の三省堂シリーズがよいですね。あと文英堂の同じく卜部先生の「化学計算問題」がGoodです。

19.部活動そのたで、塾に通えない人の見方、「Z会」があります。英語、国語、数学3教科を一度にこなすのは大変です。どれか1,2  

   教科にしぼって、Z会の問題にチャレンジしよう。東大の問題に怯まぬ実力が必ず養成できます。

20.小論文。大学に入ってからのレポートの作成にとても役に立ちます。受験期に書くことに是非慣れてください。

あなたの参考になりましたか?

 

貴方のご健闘をお祈りいたします。

 


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去年の今頃、あなたは何をしていましたか?なでしこジャパンの活躍を見て。

2011-07-21 | 日記

女子サカーの「なでしこジャパン」はよく頑張った。

女子リーグ結成30年

ワールドカップ挑戦20年

やっと掴んだ栄光

あらゆる面で男子と比較にならない、劣悪な環境にめげず、ついに頂点にたつ。

お見事というほかない。

「自分たちが勝つことによってしか、女子サッカーは認めてもらえないんだ。」

という認識の下、よくぞ頂点を極めた。

勝負に勝つとは、日頃からのなみなみならぬ努力が必要なのは言うまでもない。

しかし、努力をすることは、敵も味方も同じ。ならば、どこで勝負、勝敗がつくのだろうか。

 

昨年の今日7月21日、私は教え子の一人である、M君の自宅を訪問していた。

M君は高校3年生。幼い頃より囲碁をたしなみ、中学、高校時代は全国大会の愛知県代表を務めてきた。全国大会出上の常連ではあったが、全国大会の予選リーグ(5名による総当り)を勝ち抜けず、一昨年までは予選敗退。最後の年となる高校3年生。少しでも成果が出せるよう2,3のことをアドバイスするために、早朝から彼の自宅にお邪魔した。

自身の体験から、「全国大会に出場してくる生徒の実力にはそれほど差はない。では、どこが勝利の分け目になるか。それは、どれだけ平常心でおれるかにすべてかかっている。実力以上のことをやれとは言わない。実力どおり、普段どおりの碁を打て。対局場が自宅の居間だとおもってみよ。顔なじみの選手がいても、軽口はたたくな。ひたすら冷静に振るまえ。

勝ち進むにつれて、周りが騒がしくなってくるが、ひたすら冷静でいろ。「碁を楽しめ」なんて自分は決して言わない。苦しんで、もがいて、もうだめだといった瞬間にも勝機は必ずあるものだ。大いに、冷や汗、脂汗をかいてらっしゃい。自分が苦しいとき、相手も苦しいのだから。

 

概ね、以上のような話をして、彼を全国大会に送り出した。

 

彼が中学3年のときのこと、彼の数学試験の答案を前に、「実にシンプルで、無駄な言葉がなく、本質を捉えた答案だ。一体彼は、何部の生徒だろうか?」と彼の素性が気になっていた。授業後の放課、彼の教室を覗くと、彼が囲碁の本を読んでいた。とっさに、彼の答案の背景が分かった気がした。教室に入ると、囲碁のこと、将来のこと、家族のことなど一通り話してくれた。

 

私自身、囲碁については、個人的に大学時代、お世話になった人へのお礼で、囲碁を覚え、その方と対局してきた。めぽう強いので、先輩は何段でいらっしゃるか伺うと「アマ5段です。」とのご返事。どおりで強いわけだ。その後、しばらくして、先輩が学生時代、大学囲碁部の主将であることを聞き、その強さが半端でないことを確信した次第です。

 

インターネットの速報を確認すると、M君は順調に勝ち進み、予選リーグは4勝0敗で勝ち抜けた。

決勝リーグでも順調に勝ち進み、とうとう決勝進出を果たした。

決勝でも、序盤、中盤、彼の強さは遺憾なく発揮された。優勢に戦いを進めていたが終盤にかけて、思いもかけぬ反撃にじりじりと失地し大差で敗れた。一瞬の気の緩みが惜しまれる。敗れたとはいえ、立派な全国大会準優勝。M君おめでとう。

 


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坂村死すともTRONは死なず?

2011-07-19 | コンピュータよもやま話

TRONプロジェクトといえば、東京大学の坂村健教授が1980年代から提唱されたものである。数々の変遷を経て、TRON協会を設立し普及を図ったが、そのTRON協会もいまや解散してしまった。携帯電話の世界で活躍してきたI-tronであったが、いまやiphoneに始まるスマートホンの普及、さらにgoogleによるandroid投入により、携帯電話部門でもTRONは役目を終えようとしている。

ここで、TRONの果たした役割を整理してみよう。

1.来るべき高度情報化社会では、様々な機器にCPUが埋め込まれ、それらが互いに協調しながら、最適な成果を生むようなコンピュータ・ネットワーク。坂村教授が想定した社会は決して夢物語ではなかった。インターネットが普及し、様々なサービスが展開され、とても快適で、利便性のある電子社会が生まれつつある。つい最近も、トヨタ自動車が取引先約1000社と電子決済を開始するとの報道がなされた。貿易関係でも既に平成11年度末よりSEA-NAECが本格的に稼動し、輸出入の通関手続き電子化され、それまで1週間かかった通関手続きが約2時間で終了するように、劇的な変化をとげた。これは欧米での電子取引(e-commerce)の普及を受けてのものであった。こうした現実を坂村教授はすでに見通していた。

2.コンピュータは人により優しいシステムであるべきだ。人間の能力を補助し更にそのもてる能力を伸張させるインターフェースを備えたコンピュータを作るべきだキーボードは、マン・マシンシステムの大切なインターフェースであるので、独自キーボードが検討された。(いわゆる、TRONキーボードが提唱された。)

3.階層ディレクトリー構造は人間の意識にあまりなじまない。だから「実身(じっしん)仮身(かしん)」モデルをOSレベルから実装したTRON.これについては、UNIXを基にしたMS-DOS、MS-WINDOWSシステムのファイル管理システムは階層構造を基にしていた。 実際にパイロットモデルである1Bノート(パナソニック製)での実身・仮身モデルは斬新で他のシステムとは次元の違うできばえであった。

4.富士通、日立のによるCPU(G-マイクロシリーズ)のできばえは、インテルのプロセッサーを遥かにしのいでいた。

5.OSの開発は主として、パナソニック(松下電器産業)が担当した。オリジナルOSを開発できたことは、1企業として技術レベルの向上に 極めて有効に働いた。

6.身障者の使用を当初より念頭にいれた、イネーブルウェアの数々の開発。

TRONプロジェクトは決して、日の丸コンピュータを意識した、狭いナショナリズムに傾倒したものではない。

発想、視点は、現在のオープンソースに限りなく近いものであった。

 一個人が立ち上げたプロジェクトで、これほど社会的に影響力をもったプロジェクトはかつてなかった。坂村教授の組織化の能力が遺憾なく発揮されたTRON。

TRONの目指した未来を志向することが、後の世代の勤めではなかろうか。いつの日か、別の形でTRON電脳社会が生まれることを祈る。

 

 


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夏休みの学習について。

2011-07-16 | 学習一般

いよいよ待望の夏休みである。この夏をどう乗り越えるかが、受験生達の天王山といえる。

日ごろできない勉強法を一つ紹介する。

題して「100時間勉強法」

  特徴:特に苦手科目の克服に最適である。

  内容:特定の科目を集中的に100時時間連続して1科目のみを学習する。

  効果:不得意科目を人並みの出来にすることが可能となる。

  解説:1週間に2時間の科目は年間で70時間が標準であろう。(大方の学校では)

      だから、まとめて100時間勉強すれば、容易に苦手科目が克服できます。

      数学なら参考書の基本問題(青チャートならチャートマーク2個から3個)を徹底的に繰り返すのです。

      問題を見た瞬間に方針が頭にたちどころに思い浮かぶようになるまでに、ひたすら勉強しましょう。

      夏休み明けには、きっとあなた自身が変わっています。

       「求めなければ、何事も完成されません。達成されません。

        熱烈に望むことが、貴方の行動を変え、貴方の人生航路も変えるのです。」

 


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コンピュータ部門、鳴かず飛ばずのソニー。起死回生の一手とは。

2011-07-15 | コンピュータよもやま話

いまでこそ、パソコン分野でのVAIOシリーズ。ゲーム機分野でのPS(プレー・ステーション)シリーズをそろえ、順風満帆に見えるソニーも一時期、パソコン分野において撤退の危機にあったことを知る人は少ない。

1980年代前半、パソコン部門で、ソニーは鳴かず飛ばずの販売成績であった。SMC777シリーズ(8ビット機)を発売販売するも、先行するNEC、シャープ、富士通に遥か遅れをとっていた。今では良いおばさんになってしまった、松田聖子さんをイメージキャラクターに起用しても、売り上げは伸びず、ソニーの先行きに不安が付きまとった。

そんな中で、ソニー内部に一つの部署が出来上がった。

責任者一人とその部下4名からなる、新しい事業部の名は「スーパーマイクロ事業部」と名づけられた。

部長には、ソニーヨーロッパにいた土井が就任した。かれは、オランダフィリップス社と共同で音楽用CDの規格をまとめた人物である。(CD生みの親といってよい。)その彼をヨーロッパから呼び戻し、新しいコンセプトに基ずくコンピュータを製造販売することが、土井の当面の任務であった。他社は、16ビット機に主力を移しており、そこに割り込むには、大いなるリスクが付きまとう。そこで、土井は販売ターゲットをエンジニアリング部門に絞った。「エンジニアが使ってみたいとおもうような、高性能なワークステーションを造ろう。」アメリカでのSunワークステーションの成功を知る土井は、和製のエンジニアリング・ワークステーションを開発しようと決意した。

ハードもソフトも1から造ろう。必要なら業界標準を積極的に採用しよう。基本設計は若い人に任せる。「君が思わず使いたくなるようなワークステーションを自由に造ってよろしい。」という魅力的なうたい文句で、これはという人材に声をかけた。そうやって集められた4人の若者の中心人物はTであった。東工大の大学院を卒業したが、定職にはいまだついていないが、コンピュータ関連の知識と技能には定評があった。ソニーのプロジェクトに「おもしろそーやないか。」と土井の下に集まった。

CPUは68系統(モトローラー製品)。OSはUNIXのBSD(バークレー・ソフトウェア・ディストリビューション)を採用、ウィンドシステムはMITのX-Window R11を採用することに、さして時間はからなかった。基本仕様から詳細設計までスムーズに決まり、約1年半で発売までこぎつけた。その名もソニー「News」ネットワーク。エンジニアリング・ワーク・ステーション」の頭文字からとってものである。

発売直後から、エンジニアリング部門から大量に注文が入った。それまでSunのワークステーションの独壇場であった分野に、後発のソニーは起死回生を目指してNewsを開発、販売した。狙いは、的をえており、その成功は土井部長の手腕であった。さらにDTP部門では、企業内のドキュメント製造支援システムを住友金属グループが積極的にシステム売りをしてくれたおかげで、この分野のTOPシェアを記録した。

次に、土井は開発環境を備えたこのNewsを社内開発の道具として積極的に使い始めた。今でも記憶に新しい「ロボット犬アイボ」の開発も、このNewsを用いてなされた。さらに、遅れをとっていたパソコン分野にVAIOを開発し、販売を開始した。もちろん、設計開発にNewsがフル回転で使われた。最初は土井以下5名で始まった社内プロジェクトであった「スーパーマイクロ事業部」も、気が付けば、5000名を超える大所帯となっていた。

そして、先ごろ顧客情報漏えいで話題になったPS(プレイステーション「)シリーズの開発にはNews、VAIOが開発マシンとして使われたのはいうまでもないことである。

こうしてみると、一人の若者の夢「自分達が使いたくなるような、マシンを開発せよ。」と命じた土井の「先見の明」を感ぜざるを得ない。

そして、優れたシステムほど、こうしたごく少数の人間の手によって作り出されていことに、貴方は気が付いただろうか。

街中で、PSPで遊ぶ若者を見るたび、私は土井さんやT君のことを思わずにはおれない。

以前、Stanford 大学の生協で手にした1冊の本がある。タイトルは「Mt.XINU」、著者(Tanenbaum)という本である。中を見ると、Unixのシステムのソースコードが延々と記録されていた。何のことはない。手作りコンピュータを目指すひとのための本である。当時はまだLinuxなどない時代で、Unixの勉強には格好の本であった。

以前、アスキー・ラーニングシステムから「C言語入門」「実践C言語」「応用C言語」の3部作を出されていた三田典弘さんから、タネンバウムの本のことは伺っていたので、思わず買ってしまった。

本のいわれは、よく「Unix TM」の文字を目にするけれど、逆から読むとどうなりますか?

それが本のタイトルの種明かしです。

ではまた。

 

 


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