真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

リボンの騎士

2006年10月10日 13時27分12秒 | 虫プロリボンの騎士
昭和42年4月2日 「リボンの騎士」がフジテレビで放映開始された
この作品で手塚先生は脚本と絵コンテの校閲をした。 そのためスケジュールは大幅に遅れ、スタッフは貫徹を余儀なくされたが、それなりに楽しい職場であった
第二スタジオがリボン班となったので、手塚先生は行きたいときに行くことができた。手塚先生のための動画机もおいてあった。 4月26日 にはモーニングショーに手塚先生が出演したが、このときもスケジュールが大幅に遅れた。
 手塚先生は五月のゴールデンウィークあとの(スタッフにはゴールデンウィークも何もなかったが)5月9日 から、漫画集団による世界一周旅行をした。モントリオール万国博等を見学して6月5日に帰国であった。
1ヶ月留守になるため、手塚先生の校閲は、中止せざるを得なかった。その間に制作の人事の問題がくすぶり始めていた。
手塚先生がいれば、深夜若い人たちと話をすることで、不満は解消できたと思うがそれがなくなってしまった。
問題はプロデューサーに対する不信感からから始まった。実験映画では制作をしていた渡辺忠美プロデューサーであったが
ほとんどのスタッフは、その名前さえ知らなかった。その人が「リボンの騎士」のプロデューサーといわれてもどんな人かわからず戸惑ったのであった。
そして一緒に連れてきた、若尾 博司さんをアシスタントプロデューサーにしたことから、制作スタッフの不満が爆発した。
W3で制作をしていた小柳朔朗さんが当然「リボンの騎士」ではアシスタントプロデューサーになると、誰もが思っていたからであった。
進行で小柳朔朗さに世話にならなかったものはいないほど、面倒見のいい人で制作一筋で来ていた、進行みんなの先輩であった。制作みんなの推薦があったにもかかわらず、無視された感があった。それが尾を引いていった。
コメント
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