真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

COM

2006年10月14日 13時47分07秒 | 虫プロ
「COM」は41年の12月25日にに昭和42年1月号が創刊された。
集英社からは女性の一部を使った絵が表紙の「プレイボーイ」が創刊された そんなことを一緒に覚えている。

今まで出版部で出していた、虫プロ友の会の「鉄腕アトムクラブ」を休刊させていたが、虫プロ商亊出版部(桑田常務、池袋西口の事務所)が新たにきちんとした雑誌を出そうと言うことになった。
この話は社長室の手塚先生から出た話であった。

このCOMの創刊にあたり、手塚先生の創刊の言葉は
ー 今まんが全盛時代だといわれている。だが、はたして質的にどれだけすぐれた作品が発表されているのだろうか。
 まんが家の多くは、過酷な商業主義の要求の前に屈服し、追従し、妥協しながら仕事に忙殺されているのが実情ではないだろうか。
わたしは、この雑誌において、本当のストーリーまんがとはどういうものかを、わたしなりに示したいと思う。同時に、かつての「漫画少年」のように、新人登龍門としてこの雑誌を役立てたいと考えている。ー

 と述べられているように、先生が「ジャングル大帝」を書いた頃、「漫画少年」に投稿覧があって、そこに投稿している人たちから、多くの新人漫画家たちを発掘している。
「漫画少年」が、廃刊されてから、先生の門をたたいてくる新人漫画家ぐらいとしか会う機会が無くなってしまい、それでも機会があると、手塚先生は会津の漫画家の集まりに出たり、名古屋の アニメ研究会の集まりに出たりしていたが、それも全国から見れば、何もしていないのと同じ事だ、と思っていた。
「漫画少年」のような雑誌を出して、投稿による新人を発掘して育てていくことが、まんが家として自分の使命ではないかと考えていた。
コメント
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