このころは「ガロ」という雑誌も青年に受けていて、漫画を見る世代を広げる役目もできるとも思っていた。実際に雑誌を発行することは大変なことであり、スタッフは多方面にわたりフル活動で働かねばならなかった。しかし掲載する漫画家は手塚先生のつてで、一流の漫画家を確保するのは、ほかとくらべてたやすくできたのであった。
現在よく言われていることであるが、(出版部は池袋の東口のビルではなく、西口のぼろやにあった)手塚先生との会議は、その出版部ではなく、母屋の社長室で行われた。だから「COM」という雑誌の名前を決めるのも、社長室であった、アイディアを持ち帰り、後日再度アイディアを持ち寄り決定したのであった。
その時部屋には、出版部の編集者だけではなく、「バンパイヤ」の週刊少年サンデー 、学年誌の小学館、や 漫画サンデー の実業之日本社 それに 「少年 」の「鉄腕アトム」の光文社 や 少年画報「マグマ大使 」の少年画報社 などの編集者たちも、その席には加わっていた。
最終的には、手塚先生の意見、COMICの「コム」という名前にきまった。
わいわいがやがやしたわりには、手塚先生の出した案が一番良かったわけで、小学館の椛島さんなど、いい名前だと褒め、Communication にも通ずるといい、ほかにもCOMPANIONとも取れるねという意見が出て最終的に「COM」という名前になった。 幸運にもその場に立ち会ったわたしはこの時初めて、コンパニオン、やコミュニケーション、という言葉を覚えた。
現在よく言われていることであるが、(出版部は池袋の東口のビルではなく、西口のぼろやにあった)手塚先生との会議は、その出版部ではなく、母屋の社長室で行われた。だから「COM」という雑誌の名前を決めるのも、社長室であった、アイディアを持ち帰り、後日再度アイディアを持ち寄り決定したのであった。
その時部屋には、出版部の編集者だけではなく、「バンパイヤ」の週刊少年サンデー 、学年誌の小学館、や 漫画サンデー の実業之日本社 それに 「少年 」の「鉄腕アトム」の光文社 や 少年画報「マグマ大使 」の少年画報社 などの編集者たちも、その席には加わっていた。
最終的には、手塚先生の意見、COMICの「コム」という名前にきまった。
わいわいがやがやしたわりには、手塚先生の出した案が一番良かったわけで、小学館の椛島さんなど、いい名前だと褒め、Communication にも通ずるといい、ほかにもCOMPANIONとも取れるねという意見が出て最終的に「COM」という名前になった。 幸運にもその場に立ち会ったわたしはこの時初めて、コンパニオン、やコミュニケーション、という言葉を覚えた。