真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

COM 2

2006年10月15日 13時55分59秒 | 虫プロ
このころは「ガロ」という雑誌も青年に受けていて、漫画を見る世代を広げる役目もできるとも思っていた。実際に雑誌を発行することは大変なことであり、スタッフは多方面にわたりフル活動で働かねばならなかった。しかし掲載する漫画家は手塚先生のつてで、一流の漫画家を確保するのは、ほかとくらべてたやすくできたのであった。

 現在よく言われていることであるが、(出版部は池袋の東口のビルではなく、西口のぼろやにあった)手塚先生との会議は、その出版部ではなく、母屋の社長室で行われた。だから「COM」という雑誌の名前を決めるのも、社長室であった、アイディアを持ち帰り、後日再度アイディアを持ち寄り決定したのであった。
その時部屋には、出版部の編集者だけではなく、「バンパイヤ」の週刊少年サンデー 、学年誌の小学館、や  漫画サンデー の実業之日本社  それに 「少年 」の「鉄腕アトム」の光文社 や  少年画報「マグマ大使 」の少年画報社 などの編集者たちも、その席には加わっていた。

最終的には、手塚先生の意見、COMICの「コム」という名前にきまった。
わいわいがやがやしたわりには、手塚先生の出した案が一番良かったわけで、小学館の椛島さんなど、いい名前だと褒め、Communication にも通ずるといい、ほかにもCOMPANIONとも取れるねという意見が出て最終的に「COM」という名前になった。 幸運にもその場に立ち会ったわたしはこの時初めて、コンパニオン、やコミュニケーション、という言葉を覚えた。
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COM

2006年10月14日 13時47分07秒 | 虫プロ
「COM」は41年の12月25日にに昭和42年1月号が創刊された。
集英社からは女性の一部を使った絵が表紙の「プレイボーイ」が創刊された そんなことを一緒に覚えている。

今まで出版部で出していた、虫プロ友の会の「鉄腕アトムクラブ」を休刊させていたが、虫プロ商亊出版部(桑田常務、池袋西口の事務所)が新たにきちんとした雑誌を出そうと言うことになった。
この話は社長室の手塚先生から出た話であった。

このCOMの創刊にあたり、手塚先生の創刊の言葉は
ー 今まんが全盛時代だといわれている。だが、はたして質的にどれだけすぐれた作品が発表されているのだろうか。
 まんが家の多くは、過酷な商業主義の要求の前に屈服し、追従し、妥協しながら仕事に忙殺されているのが実情ではないだろうか。
わたしは、この雑誌において、本当のストーリーまんがとはどういうものかを、わたしなりに示したいと思う。同時に、かつての「漫画少年」のように、新人登龍門としてこの雑誌を役立てたいと考えている。ー

 と述べられているように、先生が「ジャングル大帝」を書いた頃、「漫画少年」に投稿覧があって、そこに投稿している人たちから、多くの新人漫画家たちを発掘している。
「漫画少年」が、廃刊されてから、先生の門をたたいてくる新人漫画家ぐらいとしか会う機会が無くなってしまい、それでも機会があると、手塚先生は会津の漫画家の集まりに出たり、名古屋の アニメ研究会の集まりに出たりしていたが、それも全国から見れば、何もしていないのと同じ事だ、と思っていた。
「漫画少年」のような雑誌を出して、投稿による新人を発掘して育てていくことが、まんが家として自分の使命ではないかと考えていた。
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初めての危機

2006年10月13日 13時37分52秒 | 虫プロ
 緊急役員会議が開かれた。
穴見さんの死後、虫プロ制作の、すべてのフィルム資産をフジテレビに譲渡して、1億3千3百8十8万円をフジテレビから借りていたことが発覚した。虫プロ商事創立のころで商事を立ち上げるとき、穴見常務に、会社印と役員印鑑を預けていた、だから穴見常務が勝手にそんな契約をした、という事になった、事実はなぞで、死人に口なしである、個人的には内緒では勝手にやらないと思っているし、当座の運転資金に借りたのであっても、返していく目算があったのだと思う。
 いずれにしても、手塚社長と役員は青くなって対策に苦慮した。

そのご、何とか交渉し、フィルムの所有権は取り戻すことができたが、放送権は10年間フジテレビが専有する事となり、その後の契約も不利な条件を飲まざるを得なくなってしまった。
放映権は昭和53年に終了した。
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りぼんの騎士 式根島事件

2006年10月11日 13時30分40秒 | 虫プロリボンの騎士
相変わらずのスケジュールの遅れ、梅雨の日が続き当時の道路は未舗装が多く、外注周りをすると泥んこになりぬれるだけではなく人も、悪いほうへ考えてしまう、そんな時でもあった。
いやな梅雨が終わり、夏が来た。不満はもう爆発寸前であった。誰が言い出したのかは分からないが、伊豆七島の式根島へ行こうよ、という話が出た。キャンプをすれば船賃だけで行けるし、と話が決まり、週に2回しかない船便の時間表を調べ、予定を立て始めた。うわさを聞いて制作事務の女性人や進行全員が行きたいという話しになり、いっそうのこと、大げさではなく、小柳さんを応援するためストライキをしてしまえという若気の至りで話がまとまってしまったのであった。
つまりプロデューサーに対して脅しをかけようとしたわけで、反逆であった。
夏の終わりみんなが4日から1週間の休暇願を出した。

残業が70時間で打ち切り残りは8時間で1日分の代休となっていたので、みんなが取りきれないほどの代休を持っていた。

それでも、休むにあたってはそれぞれの立場で、良心の呵責か支障のないように段取りをつけておいた。
 反乱は決行されたプロデューサーとAP以外の制作は竹芝から船で、新島経由で式根島へ向かった。バチがあたったのか船は台風の影響をもろに受けた大波で、大ゆれに揺れた。
それでも島に着くと、迎えの小船が出て、沖に停泊した船から乗り移って式根島へ上陸した。
 キャンプはしたものの、浜辺のキャンプ場は水道が2時から4時までしか出なく、最適とはいえなかったが、久しぶりの休暇を楽しんでいた。仕事を担当しているものは、先に帰らなくてはならなかった。しかし悲劇が起こった、台風が来たのであった。船が来ない、帰れない、島から出る方法はまったくない。
島の郵便局から電報を打った、「イマシキネジマ タイフウデカエレズ、シゴトタノム」
予定より2日遅れて帰ってきた、そのまま2スタへ戻った。一人一人が謝ったが、そこには机がなくなっていた。ほとんどのもの者は、3スタの「わんぱく探偵団」の準備室にまわされた。
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リボンの騎士

2006年10月10日 13時27分12秒 | 虫プロリボンの騎士
昭和42年4月2日 「リボンの騎士」がフジテレビで放映開始された
この作品で手塚先生は脚本と絵コンテの校閲をした。 そのためスケジュールは大幅に遅れ、スタッフは貫徹を余儀なくされたが、それなりに楽しい職場であった
第二スタジオがリボン班となったので、手塚先生は行きたいときに行くことができた。手塚先生のための動画机もおいてあった。 4月26日 にはモーニングショーに手塚先生が出演したが、このときもスケジュールが大幅に遅れた。
 手塚先生は五月のゴールデンウィークあとの(スタッフにはゴールデンウィークも何もなかったが)5月9日 から、漫画集団による世界一周旅行をした。モントリオール万国博等を見学して6月5日に帰国であった。
1ヶ月留守になるため、手塚先生の校閲は、中止せざるを得なかった。その間に制作の人事の問題がくすぶり始めていた。
手塚先生がいれば、深夜若い人たちと話をすることで、不満は解消できたと思うがそれがなくなってしまった。
問題はプロデューサーに対する不信感からから始まった。実験映画では制作をしていた渡辺忠美プロデューサーであったが
ほとんどのスタッフは、その名前さえ知らなかった。その人が「リボンの騎士」のプロデューサーといわれてもどんな人かわからず戸惑ったのであった。
そして一緒に連れてきた、若尾 博司さんをアシスタントプロデューサーにしたことから、制作スタッフの不満が爆発した。
W3で制作をしていた小柳朔朗さんが当然「リボンの騎士」ではアシスタントプロデューサーになると、誰もが思っていたからであった。
進行で小柳朔朗さに世話にならなかったものはいないほど、面倒見のいい人で制作一筋で来ていた、進行みんなの先輩であった。制作みんなの推薦があったにもかかわらず、無視された感があった。それが尾を引いていった。
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鈴木館長が語るアトム ミドロが沼

2006年10月09日 14時43分46秒 | アニメーション
午後から杉並アニメーションミュージアムへ行く
 講演会があったからで、レクチャーアニメ「鈴木館長が語るアトム」へ言ってきたのであった。

 鈴木伸一館長が、演出として関わった『鉄腕アトム(1963年-1966年)』第34話「ミドロが沼」について思い出を語ります。
第34話「ミドロが沼」は、トキワ荘出身者で作られた「スタジオゼロ」によって制作されました。石ノ森章太郎、つのだじろう、藤子・F・不二雄、藤子不二雄(A)(50音順)といった壮々たるメンバーで作られた作品です。

と言うことで、早目に杉並アニメーションミュージアムに付く、資料の部屋で展覧会の絵の入っているDVDに、オーケストラの実写版が入っていることをスタッフに教えてもらって知った。DVDは直されていたりするので、ビデオのほうが良いのではと勝手な先入観で考えわざわざビデオの「展覧会の絵」を購入したが、結果的にはDVDのほうが、たくさんの作品が入っているので、価格的には安く、良いことになるにだ。時間まで、オーケストラ場面のDVDを見させてもらった。
30分前に会場へのアナウンサーがあり会場へ入る。そこは、上映している会場であった。
 ゲストに辻真先さんと声優の勝田久さん(御茶ノ水博士)がお見えになっていた。
聞きたいことがたくさんあっていったのであるが、質問はあらかじめメールでの質問だけに答える形であった、メールで申し込みをしたときの私の質問に対するお答えが、最初で、丁寧に長くお答えになって下さったのがせめてもの慰め。
 メモをしたのだが、整理するには、まだ時間がかかりそう、そのうちなんとかなるだろう。
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悟空の大冒険 ロ

2006年10月08日 18時31分01秒 | 虫プロ悟空の大冒険
暴れ者の石猿孫悟空は、斉天大聖となるが、天で大暴れして山に閉じ込められる、猿というよりガキ大将としてえがかれるが、声優は石毛和子さんが担当した。
悟空の相方ヒロインの竜子には その後「新ルパン三世」で峰不二子を担当した 増山江威子さんが担当した。
閉じ込められた悟空を救う学識高い高僧の三蔵法師は、なんとな「お釜さん」ぽい、頼りない存在として描かれている。声は当時はやっていた「0011 ナポレオンソロ」というテレビ番組のイリア クリアキンの声を担当して人気のあった 野沢 那智さんを起用した、野沢さんは後の「どろろ」で百鬼丸を担当する、 また後の「クレオパトラ」では オクタビアス シーザーを担当し、日ごろはニヒルだが実はホモであるという役を見事に演じたのには、悟空で三蔵法師をえんじたことによるのではないかと、その因縁を感じる。
宝の地図を何枚も袋のなかに持っていて、宝探しをしている沙悟浄に愛川欽也さん、
食べ物には目がない八戒に 滝口順平さん、と今ではたいへん贅沢なといわれる豪華な顔ぶれを使っていた。
 次から次へと繰り出すギャグは、そのセンスがまだ受け入れられず、早すぎた感があった。
また「どっちもどっちのまき」ではミュージカル・アニメを試みている。
ギャグのひとつひとつ、お話の1話1話が実験的アニメの要素も多く、この「悟空の大冒険」はまだ早すぎた、と今になって言えるのではないだろうか。
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悟空の大冒険 イ

2006年10月07日 18時28分28秒 | 虫プロ悟空の大冒険
昭和42年1月7日 「悟空の大冒険」がフジテレビで放映開始された。
虫プロでの初のギャグアニメであった。
というよりジャングルの流れを汲み、パイロットのときとは違い、手塚治虫の手を離れていった。
スタジオは第五スタジオ 
プロデューサーは川端 栄一部長、実作業はアシスタントプロデューサーの、富岡厚司さんが取り仕切った。
ディレクターは杉井義三郎さんで作業をしやすく(描きやすく)するためキャラクターも杉井義三郎さんのデザインとなった。
元虫プロ社員杉井義三郎さんが立ち上げたスタジオ 「アートフレッシュ」が五スタの近くにあり、制作には杉井義三郎さんを含めて全面的な協力を得た。
原作はもちろん手塚治虫の「ぼくのそんごくう」である、
この「ぼくのそんごくう」は一度東映動画の「西遊記」で長編アニメとなっていた、が、この「悟空の大冒険」は完全なテレビオリジナルな作品に仕上がっていた。
 原作となる「西遊記」は中国の奇書といわれているが、この「悟空の大冒険」は、そのパロディー版で登場人物以外宗教的なものを一切感じさせないギャグストーリーとなっている。
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展覧会の絵の受賞

2006年10月06日 16時07分53秒 | 虫プロ展覧会の絵
昭和42年1月30日青山で明治製菓の会長さんのお葬式があった。会場へ島方室長と桑田常務をお連れし参列した。
この日の午後6時からは練馬の浜松会館で「展覧会の絵」の打上が行われ大塚清六さんやスタッフ30数名が参加した、「展覧会の絵」をお手伝いした社長室の全員も出席して、8時過ぎまで楽しんだ。

1月31日には 「展覧会の絵」で第17回ブルーリボン教育文化映画賞を受賞した。授賞式には、先に行っていた、島方さんと、2人で、間に合わないのではとひやひやしながら待たされたが、手塚先生は6時半から飯野ホールで開かれた「展覧会の絵」の映写発表ぎりぎりに間に合い、盛大な拍手を頂くことができた。そのあとの地下1階でパーティーが開かれ8時半まで中華料理店で食事を楽しんだ。
2月4日には「展覧会の絵」が文部省推進の教育映画とされ丸の内ピカデリーにて公開された。明け方降った雪がうっすらと積もっていた その「展覧会の絵」のピカデリーでの初日、手塚先生の色紙42枚がピカデリーでくばられた、また感想を聞くためにアンケート用紙も渡された。
2月25日 には毎日映画コンクール第5回大藤信郎賞 を受賞 した。
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展覧会の絵でファンタジア

2006年10月05日 15時52分54秒 | 虫プロ展覧会の絵
昭和42年1月21日には 虎ノ門ホールにて第21回芸術祭の表彰式が執り行われた。「展覧会の絵」は第21回芸術祭奨励賞を受賞し、手塚治虫と社長室は授賞式に出席した。
1月23日 には「展覧会の絵」が丸の内のピカデリーで「恋人達の世界」と一緒に封切りされた。
手塚先生はこのことで、お金が入るから、全社員に今公開されている、デズニーの「ファンタジア」を見てもらおうと言い出したのである。
これには私は少なからず責任を感じている。先生と仕事明の時よくお話をすくことがあった、「展覧会の絵」の時に、デズニーの「ファンタジア」みたいなといわれ、不勉強であったので「知りません」と答えてしまった。「あれは、アニメを志すのであれば、ぜったい見なくてはいけません」といわれたことがあったのだ。そのため先生は、全社員に見てもらいたいと考えていたのではないかと、心を痛めた。
デズニーの商法なのであろうか、何年かごとに(何年後とか忘れてしまったが)保存してあるネガから、ネガを起こして、ニュープリントで公開していた。こどもむけのアニメなので、成長に合わせて、見ていないこどもに向けて、公開することで、収益が上がる、こんな方法もあるのですねと、話していた。
その「ファンタジア」の切符を、手塚先生は全社員に配ると言った。
先生の言いつけで、デズニープロのある兼坂ビルまで330枚の切符を買いに行ってきた、総務課に渡して全社員へと配られた。しかし26日には切符が足りなくなってしまった。まだ貰っていない社員が大勢いるとの連絡が社長室に入った。またデズニープロへ行って、切符を購入してきた。それでもまだ足りなくなり31日に追加で買いに行った。
このことでわかるように虫プロでは、実際に社員が何人いたのか正確には把握できていなかった証拠で、どうも社員数を少なく見積もっていたのであろう。赤字の足音が聞こえ始めた。
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昭和42年

2006年10月04日 15時25分13秒 | 虫プロ
昭和42年1月9日の月曜日 空は晴ていた、漫画部が中村橋スタジオから第4スタジオへ引越しをした。中村橋の漫画部では、深夜仕事が終わると帰ることができないので、誰か一人社長室の者が母屋の社長室で待機しなくてはならなかった、そのことを手塚先生が心苦しく思われたからであった。第四スタジオは第三スタジオの先にあったので、じゅうぶん歩いて行ける距離にあった、このスタジオは企画室などで使われており、山本暎一さんが「ヤマト」などの企画をしていた。
この当時の冬は寒くて、母屋の庭の池の氷がだいぶ厚くなっていた、なかまが氷の上に乗って遊んでいたが、調べてみると15から20センチぐらいの厚さがあったのだ。 今では想像できないであろう、まったく氷が張っているのを見ることはなくなった、外にある水道は、布を巻いておかないと凍り付いて使えなくなる、また凍りついた水道に、やかんのお湯をかけてとかしたり、凍りついた水道栓を、うっかり開けたままにしておくと、日が当たって水道の氷が解け、勢いよく水道の水が流れている光景を、よく目にしたものであった。
今では見かけなくなったこの光景、温暖化という言葉でで済ませて良いのであろうか?老婆心ながら  である。
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羽田まで先生を送る

2006年10月03日 14時59分02秒 | 虫プロ
昭和42年1月5日 手塚先生は大阪へ出かけなければならなかったが、例のごとく原稿があがらず編集者はいらいらしていた。秘書の島方社長室長は、雑誌担当の編集者と、先に羽田空港へ行き搭乗手続きを手塚先生の代わりにしておくことにして、なんとか、原稿を描く時間を延ばそうとして出かけていった。
 飛行機の時間に、とうとう40分しかなくなっていた、なんとか飛行機に間に合わせてほしいと、車に乗り込んだ、車を運転したのは須崎さんではなくわたし。

 私が、前に、2スタと3スタの間の家の息子さんが、船橋サーキットへいってホンダのS8でレースをしていた。トラックにS8を乗せ準備しているときなどレースの話を聞いていた、それに影響されて国内A級ライセンスを取っていたからであった。
 環七を飛ばして初台から首都高速に乗った、驚いたことに、先生はそんな車の中で未完成の原稿にペンを入れていた。 高速にあがると、アクセルを踏みっぱなし、はじめの大曲をタイヤをきしませて師の車プリンスグロリアは猛スピードで羽田へと向かった。その間も師はペンを走らせ続けていたのでできるだけ車が揺れないよう運転はした。出発ぎりぎり羽田のロビーに車は着いた。駆け足で入り口に向かいながら、手塚先生は待ちかねていた編集者に原稿を渡した。絵の乱れもなく原稿は、仕上がっていたのであった。 これにはおどろいた。あんなに飛ばした車の中である、当然車の中に墨汁がこぼれたあとがあるだろう、しかし、何の汚れも蜜からなかった。

冷静になると、何とか間に合わせたが、無茶な運転をしたことで、もしものことがあったらどうなったのかと背筋が寒くなり、それ以後、人を乗せての無茶な運転はやめた。
あるとき手塚先生のお父さん北風さんと出かけることがあった。いつも運転を褒めてくれ、出かけるときに運転を頼まれることが多かった、そのお父さんが、会話の中で「うまい運転とは助手席の人が、安心して居眠りをするのがうまい運転だよ」と話された。何気ない会話の中で話された言葉であったが、この無謀運転をしたことで公開していたので、その言葉が、脳天をぶち抜いた。「肝に銘じ」安全運転に心がけようと心に誓った。
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『ふしぎなメルモ』の リニューアル版

2006年10月02日 16時00分01秒 | アニメーション
 10月2日から『ふしぎなメルモ』の リニューアル版が毎週月曜日~金曜日 午前8:30~9:00 TOKYO MXにて放送されはじめました。
1998年WOWOW「手塚治虫劇場」のために、音楽と声優さんを新たにしてリニューアル(新装)したものです。
メルモ 武藤 礼子さんが   川村 万梨阿さん
トトオ 松島 みのりさんが  松本 さちさん
ママ  北浜 晴子さんが   石井 直子さん
ワレガラス 北村 弘一さんが 西村 知道さん
など変わってしまっていました。

1話を見ただけの感想ですが、音楽(BG)と声優さんを変える必要があったのか疑問に思いました。メルモを作った者としての、贔屓目を差し引いても、これは、リニューアク(悪)になってしまっていますね。

1話で先生が力を入れて作画した(動画までですよ)継母のしゃべりのシーン。声優の麻生 美代子さんが、命を賭けて生命を吹き込んだ あのシーンが、台無しになっておりました。
先生が描いた、動画のイメージを無駄に出来ないと、口の止めに合わせるため、何度も、何度も、一人で、リハーサルして、とった、 私たちにとって、宝のようなシーンでした が、今回、リニューアル版では、そんな心が、感じられないどころか、さっと流して、アフレコしてしまったようです。
 今は知りませんが、当時は、1話ごとにアフレコ、音作り、音入れ、ダビングと丁寧に時間をかけてしていました。GBMも大変な量の資料や、作曲の宇野 誠一郎先生のご努力で作られたものです。それが、まったく感じられず、取って付けたまるで素人のような仕事です。
 私が、なおしたいと思っておりましたのは、当時、スケジュールが無くなり、泣く泣く我慢したカットが多くありました、同じお金をかけるなら、それらをなおしていただきたかったです。
 背景も明石 貞一さんが、スケジュールの許す限り、貫徹してでも、妥協を許さず、1枚1枚描いてくれました。スポンジを使った、独特の背景も最新の注意を払って書いてくれました。ですから今回、入れ替わっていたカットの背景は、異質に感じられました、作品としてつながりが無く、ばらばらになってしまっています。
 撮影で使った、波ガラスもそうです、市販の波ガラスではイメージが出ないと、撮影監督の菅谷 正昭さんは大セルを持ってこさせて、火にあぶり、セルをわざと波だたせ、カメラを何度も覗き込み、気に入るまで作り直して、撮った、そんなシーンでした。本来なら菅谷さんのスタジオ珊瑚礁は外注さんでした。お金のためならそんな面倒な苦労をすることはありません、一文の得にもならないからです。
 ほかの皆がそうでした。お金のためではなく、手塚先生の作品をぎりぎりまで、良い作品に作り上げようとして作ったのが、このメルモのでした。
 ほんの、少しの人にでも良い、わかって貰いたい、そんな気持ちで、書きました。
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展覧会の絵 生演奏が成功する

2006年10月01日 14時36分02秒 | 虫プロ展覧会の絵
 手塚先生は田代さんに、最後のオーケストラの実写部分を実際のオーケストラが演奏できないかという注文をしたのであった。
言うのは簡単であるが、実際に生で演奏をする、それも途中から、とても簡単ではなかった。指揮者にどのように演奏開始のタイミングを知らせるか、当日の映写時に指揮者や演奏者の楽譜の照明はどうするのか、演奏を始めてから映像とのタイミングをどう取るのか、考えても結論は不可能という答えしか出てこなかった。
それでも、手塚先生の情熱を感じて、とうとう「やってみましょう」と答えてしまったが、考えれば考えるほど難しいということがわかり、眠れない日が続いた。

一人考えていても仕方がないことなので、指揮者の秋山 和慶氏をたずねて、実現するには、どんな問題があるのかを相談した、相談された秋山さんも「とても無理です」という返事をするしかなかったが、田代さんは「しないのではなく、やることを前提に考えてみてくれませんか」と説得をした。

今なら小さな照明や小さな高性能のトランシーバーなどがあり、可能性は高いが、そんなものがない時代、 指揮者の秋山さんはヘッドホーンを付け映像とおなじタイミングで演奏できるように何度もトレーニングをした。
田代さんも、譜面だけではなく、すべてのシーンを頭の中に叩き込んだ。当日は田代さんが舞台の袖の陰から、演奏開始のタイミングを指揮者の秋山さんに合図することになった。
しかし、リハーサルでは何度やっても、なかなか思い通りにできなかった。
 本番の日がきて、うまくいっていないことを知っているスタッフは、はらはらして見守っていた。
「展覧会の絵」が上映された、エンディングの場面となった。
そしてそれが、ものの見事に成功したのである。
その日の目撃者は、ほんの少数の人たちと言えるかもしれないが、「手塚治虫の歴史」の1ページを飾った出来事といえるのではないだろうか。またそれの目撃者となれたことを、感謝したい。
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