今朝も、4時過ぎまで、パソコン作業、だんだん、焦っている。
物音がする、鳥が来て、雨戸の戸袋、手を入れるようになっている、切り込みから、戸袋の中に、巣を作ろうとしているらしいが、羽音、それも、戸などに当たる音が、うるさい、ウォークマンを聴いて、寝ている。
6時30分、それでも、うるさくて、起きて、雨戸を開けておく。これで隙間が無くなり,諦めるであろうと。
それでも、鳴き声や、羽音がうるさい。
7時、下に行き、妻の、顔を見てくる。寝て無くて、眠いけれど、鳥がうるさくて眠れないなど、話を。
部屋に戻り、パソコンの電源を入れる。雨戸を開ける。ガラス戸越しに、鳥が来て,とまる、くちばしに、巣の材料をくわえている、諦めようにない。
7時30分、妻が、出かけていく。天気予報では、夕方から、寒冷前線が来るので大荒れするという。
9時、長男が下に降りていく。パソコン区切りの良いところで、下に行き、遅くなるか尋ねる。かなり遅くなりそう、行ってみないとわからないが、下手すると、午前様かもと。天気のことを言い、送っていくからと言う。
部屋に戻り、パソコン作業。大阪の説明をしたのだから、東京の説明も、地図など作る。
9時30分、下に行き、長男を乗せて家を出る。9時55分、送り届ける。
10時30分、家に戻る。パソコン不調、すぐにフリーズ、急がば回れで、ディスククリーン、そしてデフログ。
何これと言うぐらい、荒れている、デフログをかける。
11時30分、やっと終わったが、まだ、ひどい状態に見える。再度、デフログ、必要ありません、の表示がされず。このせいで、パソコンの調子が悪かったのかな。
12時20分、次男が、PCデポに行ってくると、自転車で出かけていく。
昨日、買っておいた、弁当を暖め、珈琲を入れて、昼食をすませる。
麻雀なんか、見ていられない、
12時45分、部屋に戻り、パソコン。
4.昭和22年の夏、敗戦後、初めて、東京に、参りました。
戦後の、焼け野原から、少しずつ、復興し始めた頃です。手塚先生、まだ18歳でありました。
(東京、大阪間は、特急でも11時間かかる時間でありました。
1949年になると、特急「へいわ」が9時間、
1950年 特急「つばめ、はと」が、8時間となりました。
その後、少しずつ、時間が短縮されますが、
1964年、オリンピックが開催された年に、新幹線が、4時間で走ったのに、驚かされました。現在は「のぞみ」が2時間25分で、東京新大阪間をつないでいます。
日本の2大都市である東京と大阪の間の夜行列車は、第2次大戦時の混乱期に一時全廃されました。
1.1947(昭和22)年 東京大阪間に愛称名なしの夜行急行が1往復復活しました。
これが1949(昭和24)年に3往復に増発された際、1・2等のみの編成の豪華版を設定し、「銀河」の愛称が付けられたといいます。)
2.この、夜行列車を利用して、1947年の夏、戦争が終わってから、初めて、上京しました。
3.手塚治虫、18歳であった。
3.東京駅から、新宿駅に出て、京王線で、上北沢の祖父母の家に行きました。
4.在京中は、新関健之介さん、に会いに上野に行き、赤羽に移り住んでいたので、上野から赤羽まで、歩いて訪ねて行った、そうです。
池袋に出て西武線の桜台に行き、島田敬三さんにも会っております。
5.ある日、下高井戸で、東急世田谷線に乗り換え、三軒茶屋に、遊びに行ったときに、電柱の張り紙を見て三軒茶屋の漫画映画、募集にも行って断られたようです。
昭和25年の春のこと、新聞社の仕事で、石田英助氏のインタビューをとるために再び、上京します。家の住所を訪ねるため、水道橋駅から、学童社に行き、そこで
2,加藤謙一編集長に会いました、そこで、「漫画少年」にジャングル大帝を、連載することになりました。
13時、洗濯物を取り込んでおく。
14時、少し雨が降っているのかな。
14時40分、妻が、帰宅する。少し、珈琲ブレーク、部屋に戻りパソコン。
19時45分、夕食。
20時30分、部屋に戻り、パソコン。
1952年(昭和27年) 23歳
東京での、仕事が増えたので、仕事の場を東京に移し、新宿区四谷の八百屋の二階に下宿しました。最近、その場所が、わかってきました、こんな、間取りであった、そうです。
1953年 (昭和28年) 24歳 今は、伝説となった、都内豊島区椎名町のトキワ荘へ引っ越す。
1954年 (昭和29年) 25歳
3月 関西長者番付画家の部でトップとなる、年収217万円。
10月 東京都豊島区雑司ケ谷の並木ハウスへ引っ越す。
西武池袋線、南口で、降りると、とても近くでした。
雑司ヶ谷の七福神巡り、最初が、鬼子母神、参道にある、雑司ヶ谷案内所、2階に行くと、手塚先生に会えるかも!
並木ハウスはすぐ近くです。
22時10分、風呂、
22時30分、風呂から出る。部屋でパソコン。ブログ準備
22時42分、ブログを書き始める。
23時04分、長男から、迎へ依頼の電話、
23時29分、着く。
23時59分、家に戻る。
0時10分、パソコン、ブログ続き、
1時、投稿しておく。
1955年(昭和30年) 26歳
4月4日 ラジオ東京で連続ドラマ「リボンの騎士」放送開始 9月26日まで、続きました。
6,600位 / 1,872,016.昨日:8406歩.起床:6時50分.血圧:117、64.脈拍:60.体温:35.8℃.体重:71.4㎏.天気晴、午後雷雨
物音がする、鳥が来て、雨戸の戸袋、手を入れるようになっている、切り込みから、戸袋の中に、巣を作ろうとしているらしいが、羽音、それも、戸などに当たる音が、うるさい、ウォークマンを聴いて、寝ている。
6時30分、それでも、うるさくて、起きて、雨戸を開けておく。これで隙間が無くなり,諦めるであろうと。
それでも、鳴き声や、羽音がうるさい。
7時、下に行き、妻の、顔を見てくる。寝て無くて、眠いけれど、鳥がうるさくて眠れないなど、話を。
部屋に戻り、パソコンの電源を入れる。雨戸を開ける。ガラス戸越しに、鳥が来て,とまる、くちばしに、巣の材料をくわえている、諦めようにない。
7時30分、妻が、出かけていく。天気予報では、夕方から、寒冷前線が来るので大荒れするという。
9時、長男が下に降りていく。パソコン区切りの良いところで、下に行き、遅くなるか尋ねる。かなり遅くなりそう、行ってみないとわからないが、下手すると、午前様かもと。天気のことを言い、送っていくからと言う。
部屋に戻り、パソコン作業。大阪の説明をしたのだから、東京の説明も、地図など作る。
9時30分、下に行き、長男を乗せて家を出る。9時55分、送り届ける。
10時30分、家に戻る。パソコン不調、すぐにフリーズ、急がば回れで、ディスククリーン、そしてデフログ。
何これと言うぐらい、荒れている、デフログをかける。
11時30分、やっと終わったが、まだ、ひどい状態に見える。再度、デフログ、必要ありません、の表示がされず。このせいで、パソコンの調子が悪かったのかな。
12時20分、次男が、PCデポに行ってくると、自転車で出かけていく。
昨日、買っておいた、弁当を暖め、珈琲を入れて、昼食をすませる。
麻雀なんか、見ていられない、
12時45分、部屋に戻り、パソコン。
4.昭和22年の夏、敗戦後、初めて、東京に、参りました。
戦後の、焼け野原から、少しずつ、復興し始めた頃です。手塚先生、まだ18歳でありました。
(東京、大阪間は、特急でも11時間かかる時間でありました。
1949年になると、特急「へいわ」が9時間、
1950年 特急「つばめ、はと」が、8時間となりました。
その後、少しずつ、時間が短縮されますが、
1964年、オリンピックが開催された年に、新幹線が、4時間で走ったのに、驚かされました。現在は「のぞみ」が2時間25分で、東京新大阪間をつないでいます。
日本の2大都市である東京と大阪の間の夜行列車は、第2次大戦時の混乱期に一時全廃されました。
1.1947(昭和22)年 東京大阪間に愛称名なしの夜行急行が1往復復活しました。
これが1949(昭和24)年に3往復に増発された際、1・2等のみの編成の豪華版を設定し、「銀河」の愛称が付けられたといいます。)
2.この、夜行列車を利用して、1947年の夏、戦争が終わってから、初めて、上京しました。
3.手塚治虫、18歳であった。
3.東京駅から、新宿駅に出て、京王線で、上北沢の祖父母の家に行きました。
4.在京中は、新関健之介さん、に会いに上野に行き、赤羽に移り住んでいたので、上野から赤羽まで、歩いて訪ねて行った、そうです。
池袋に出て西武線の桜台に行き、島田敬三さんにも会っております。
5.ある日、下高井戸で、東急世田谷線に乗り換え、三軒茶屋に、遊びに行ったときに、電柱の張り紙を見て三軒茶屋の漫画映画、募集にも行って断られたようです。
昭和25年の春のこと、新聞社の仕事で、石田英助氏のインタビューをとるために再び、上京します。家の住所を訪ねるため、水道橋駅から、学童社に行き、そこで
2,加藤謙一編集長に会いました、そこで、「漫画少年」にジャングル大帝を、連載することになりました。
13時、洗濯物を取り込んでおく。
14時、少し雨が降っているのかな。
14時40分、妻が、帰宅する。少し、珈琲ブレーク、部屋に戻りパソコン。
19時45分、夕食。
20時30分、部屋に戻り、パソコン。
1952年(昭和27年) 23歳
東京での、仕事が増えたので、仕事の場を東京に移し、新宿区四谷の八百屋の二階に下宿しました。最近、その場所が、わかってきました、こんな、間取りであった、そうです。
1953年 (昭和28年) 24歳 今は、伝説となった、都内豊島区椎名町のトキワ荘へ引っ越す。
1954年 (昭和29年) 25歳
3月 関西長者番付画家の部でトップとなる、年収217万円。
10月 東京都豊島区雑司ケ谷の並木ハウスへ引っ越す。
西武池袋線、南口で、降りると、とても近くでした。
雑司ヶ谷の七福神巡り、最初が、鬼子母神、参道にある、雑司ヶ谷案内所、2階に行くと、手塚先生に会えるかも!
並木ハウスはすぐ近くです。
22時10分、風呂、
22時30分、風呂から出る。部屋でパソコン。ブログ準備
22時42分、ブログを書き始める。
23時04分、長男から、迎へ依頼の電話、
23時29分、着く。
23時59分、家に戻る。
0時10分、パソコン、ブログ続き、
1時、投稿しておく。
1955年(昭和30年) 26歳
4月4日 ラジオ東京で連続ドラマ「リボンの騎士」放送開始 9月26日まで、続きました。
6,600位 / 1,872,016.昨日:8406歩.起床:6時50分.血圧:117、64.脈拍:60.体温:35.8℃.体重:71.4㎏.天気晴、午後雷雨