貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

やっと 末の松山へ!

2022-11-04 13:43:45 | 日記
令和4年11月4日(金)
多賀城市: 末の松山              
 多賀城には、
坂上田村麻呂や万葉歌人である
大伴家持らも派遣されている。
 また、平安時代には、
風流を愛する都人が
「歌枕の地」として憧れ、
地名を詠み込んだ和歌を
たくさん作っている。
 末の松山碑と説明

 ここは、多賀城市八幡地区、
歌枕の地「末の松山」。
沖の井の方から末の松山

末の松山の黒松 
 

 有名な歌は、
小倉百人一首の、
清原元輔の歌、
「契りきな 
  かたみに袖を 
    しぼりつつ 
  末の松山 
     波越さじとは」 
     (後拾遺集)。
「約束しましたよね。
涙に濡れた着物の袖を絞りながら。
末の松山を波が越すことなど
あり得ないように、
私たちの心も決して変わらない」
という意。
古今和歌集東歌碑

 歌碑の説明碑

 しかし、
どうして「末の松山」と「波」は、
一緒に詠まれているのだろう?
「実は、869年(貞観11)、
陸奧国で大地震が発生し、
多賀城の国府のそばまで
大津波が襲ったという貞観地震。
 多賀城政庁の建物が壊れ、
千人以上の犠牲者が出る。
 標高10メートル程の小山の
末の松山の麓まで津波が
押し寄せたそうだが、
山を飲み込むことはなく、
無事だった。」
という記録が残っている。
 そのことから、
「末の松山」は、
決して波が越すことのない場所、
契りや約束を表す言葉として
詠まれるようになったのだといわれている。
 現在の二本の黒松は、
推定樹齢480年である。

 名勝「奥の細道の風景地」の二つ目を、 
前回見逃したので、今回堪能。            
  壷の碑の管理事務所の方が下さった
資料のお蔭である。
 有難し!              
名勝「奥の細道の風景地」の
三つ目の、「沖の井」は、
すぐ近くにある。