令和7年1月28日(火)
多賀城市末の松山②
しかし、
どうして「末の松山」と「波」は、
一緒に詠まれているのだろう?
<古今和歌集東歌碑>
「実は、869年(貞観11)、
陸奧国で大地震が発生し、
多賀城の国府のそばまで
大津波が襲ったという
貞観地震。
多賀城政庁の建物が壊れ、
千人以上の犠牲者が出る。
標高10メートル程の
小山の末の松山の麓まで
津波が押し寄せたそうだが、
山を飲み込むことはなく、
無事だった。」
という記録が残っている。
<おくのほそ道の説明も>
そのことから、
「末の松山」は、
決して波が越すことのない場所、
契りや約束を表す言葉として
詠まれるようになったのだ
といわれている。
<歌碑の説明碑>
現在の二本の黒松は、
現在の二本の黒松は、
推定樹齢480年である。
<二本の黒松>
名勝「奥の細道の風景地」
の二つ目を、前回見逃したので、
今回堪能。
<末の松山碑と説明>
壷の碑の管理事務所の方が
下さった資料のお蔭である。
有難し!
名勝「奥の細道の風景地」
名勝「奥の細道の風景地」
の三つ目の、
「沖の井」は、
「沖の井」は、
すぐ近くにある。
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