貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

池泉回遊式・・・

2018-12-26 08:49:37 | 日記

池泉回遊式・・・

平成30年12月26日(水)

 「今日の10時半に製本完成!」

とのTELが昨夕あり。

 「いやあ、随分早いですね!」

と、感嘆の返事をする。

 11時過ぎの楽しみ!

 年末までに、知人、友人にあげ

られる。

 私の道楽というか、趣味というか、

より道というか・・・・・・。

タイトルは、

『ぼくのほそ道 芭蕉の古道』。

 いよいよ金沢市へ。

 金沢の友は、今はトラクターも

使い、農業に勤しんでいる。

 今回も逢わずに・・・。

 

 今回は駐車場に入れず、ぐるぐる・・・。

 午後だから余計無理だったのかな。

 市役所への入口もわからず、

結局2回目に、地下3階に入る。

 ところが、受付の前は渋滞?

 空きを待つ車が5・6台。

 待つしかなし。

 しばらくして、駐車場の受付、

駐車できる。

 玉泉院丸口から金沢城公園へ。

 外国の観光客が80%、その五分

の四は中国系の方々。

 数年前とは、様変わり。

 玉泉院丸庭園は、加賀藩三代藩主

「前田利常」による寛永11年(1634)の

作庭が始まり。

 その後、五代「綱紀」や十三代「斉泰」

などの歴代の藩主により手を加えられながら、

廃藩時まで金沢城内玉泉院丸に存在して

いた庭園だ。

  饗応の場として活用された

「兼六園」に比べ、藩主の内庭と

しての性格が強い庭園だったと

考えられている。

 庭園は、城内に引かれた辰巳用水を

 水源とする池泉回遊式の大名庭園で、

池底からの周囲の石垣最上段までの

高低差が22mもある立体的な造形。

 滝と一体となった色紙短冊積石垣

などの、意匠性の高い石垣群を庭の

構成要素とする、

 他に類を見ない独創的な庭園。

 平成13年(2001)に復元された

菱櫓は、当時は大手と搦(からめ)手(て)を

見張る物(もの)見(み)櫓(やぐら)として

重要な役割を果たす。

 その名の通り、建物の平面が菱形

(内角が80度と100度)になって

おり、死角を少なくし視野を大きく

する効果があるという。

  金沢城入城!


くりから 倶利伽羅?

2018-12-25 08:59:18 | 日記

くりから 倶利伽羅?

平成30年12月25日(火)

 今朝は、「小矢部市」へ。

 「おやべし」へ。

 以前から「倶利伽羅峠」へ一度

足を運んで…イメージ先行の願いが

叶う。

 倶利伽羅峠で加賀の国に接し、

北陸道の要衝。

 宿場町として栄えた所。

 今は「メルヘンの町」としても

有名。 

 峠付近は公園になっている。

 芭蕉句碑はなさそうなので、

約1300年の歴史を持つ倶利迦羅

不動寺(山頂本堂)を参拝する。

 手向け神社とも共存。

 

長楽寺跡も有り、歴史を感じる。


 成田不動尊(千葉県)、

大山不動尊(神奈川県)と並び、

日本三不動尊の一つとして知られ

ているそうだ。

(知らなかった)。

 詫びて参拝!


 

 地名にもなっている「倶利迦羅」は、

「剣に黒い龍の巻きついた不動尊像」

という意味のインドのサンスクリット

語に由来しているという。

 芭蕉と曾良はこの倶利伽羅峠を越えて、

金沢に入る。

 曽良の「随行日記」によれば、

芭蕉が倶利伽羅峠を訪れたのは、

元禄2年(1689)7月15日、

新暦の8月29日。

「快晴。高岡ヲ立、埴生八幡ヲ拝ス。

源氏山、卯ノ花山也。クリカラヲ見テ、

未ノ中刻金沢ニ着。…」

と記載されている。

 埴生八幡とは、義仲が戦勝を祈願

した埴生護国八幡宮のこと。

 「平家物語」に想い入れがある芭蕉は

「奥の細道」の旅で、源平合戦ゆかりの

史跡を巡り、いくつかの名句を残して

いる。

 特に、義仲には強い共感を抱いていた。

「(墓は)木曽殿の隣に」

との遺言。

 大阪で病死した芭蕉は弟子によって

死の翌日、大津にある義仲寺に運ばれ

義仲の墓の隣に埋葬された。

 北陸路では金沢に急いだ芭蕉も、

義仲が大勝を納めた合戦の舞台で

ある倶利伽羅峠では、義仲に想いを

馳せていたこと。

 倶利伽羅峠を横断する源平ライン

沿いには芭蕉の句碑が二つ建って

いるという。

「義仲や 寝覚めの山か 月悲し」

「あかあかと 日は難面も 秋の風」

 それを探すこともなく・・・。

五重塔もある。

あそこらへんかな?と勝手に街道と

倶利伽羅峠を旅姿で歩くイメージ。

 

 金沢へとちょっと急いだかな?

 急いてはくりから、倶利伽羅かな。


御旅屋門と甍塚

2018-12-24 08:52:13 | 日記

御旅屋門と甍塚

平成30年12月24日(月)

 昨日は、天皇陛下の平成最後の誕生日!

 災い多しのイメージもあるが、平和で

それぞれの個性や楽しみが尊重されて

来たというよき時代!

 象徴としてのあり方を追求されてきた、

仲睦まじい天皇ご夫妻に、

最大の感謝と祝意を!

 私も一度だけ、自分の関係するある

会にご臨席、ご挨拶をいただき、

高雅で流麗なご挨拶に感動してことも

記憶に残っている。

 ほんとにおめでとうございます。

 そして、昨日は逆転の日。

 高校駅伝は倉敷高、レスリングは、

伊調選手が残り10秒で逆転優勝。

 そして、夜の女子フィギアフリーで、

紀平が逆転でトップ。

 優勝かな?

 トリの坂本選手が逆転優勝!

 終わりまで粘り強く、自分を

信じて・・・と、日々の練習の成果と

改めて感じた。

 平和も日々の努力と人皆仲間と

ともに、仲良く。

 自然の中で・・・共生だ。

 平和への粘り強さも必要かな・

 

「いどみ・つたえ・つくり・たのしむ」

事を、さらに大事にしていこう!

 そんな思いをいだき、

今朝は、高岡市永安寺。

  これが、御旅屋門。

 現在境内には加賀三代目

藩主利常氏が鷹狩の宿として

作った御旅屋(本陣:川合家役宅)

の正門(御旅屋門)が移築され、

昭和42年(1967)に高岡市

指定文化財に指定された。

 

 立派な「河合翁頌徳碑」
も参拝。

 戸出を造った功労者のようだ。

 もう一つの句碑は誰の句なのか不明。

「さざなみや 鴛鴦も 有磯海」

「 雨(あま)晴(はらし) 波と砂の

         ハーモニー」

の二作できる。

 甍塚は、

 

「観音の いらか見やりつ 華の雲」

 という芭蕉作の句が刻まれている。

 江戸中期の宝暦13年(1763)に

戸出町出身の俳人尾崎康工の尽力に

より建立されたそうだ。


あまはらしとめいわ?

2018-12-23 10:00:33 | 日記

あまはらしとめいわ?

平成30年12月23日(日)

 高岡市に入る。

 目標は、女岩荘!

 最近分かったことだが、

女岩荘(めいわそう)と呼ぶ。

女岩荘に到着。

 恰好の海水浴場。

 女岩荘に、芭蕉句碑があるのかな?

目を凝らして探索!

 

紛らわしい限りの見事な岩。

 ちょっと違うな。

 気持ちは、海岸へ。

 雨晴海岸だ。

 雨晴は「あまはらし」というそう。

 やっぱり、よみがながほしいね。

「有磯海」は、大伴家持の万葉集歌、

「かからむと かねて知りせば 

 越の海の 荒磯の波も 

      見せましものを」

を初出とする歌枕の由緒地。

 有磯は「荒磯」!

 雲の勢いも凄い!

 そして、

 この雨晴海岸・女岩の周辺には、

義経岩もあり、源義経ゆかりの伝説が

伝わっている。

 1187年(文治3)、義経一行が追討

の兵から逃れ、京都から奥州へ落ちる

途中、雨晴海岸にさしかかった。

 その時、にわかに空が曇り、雨が降り

出した。

 弁慶が急いで岩を積み上げ、

 岩穴をこしらえて雨宿りしたとされる。

 そもそも「雨晴」という地名は、

この伝説に由来するとされている。

 今思えば、

 女岩を見に行けばよかった・・・。

 源義経一行の雨宿り伝説が残る

雨晴海岸からは、「有磯海」の荒磯を

象徴する女岩を前景として、

遙か立山連峰を望むことができ、

観賞上の価値が高い。

 現在、「万葉ロマンのコースタルステージ雨晴」

として整備されている。

 

 もう一回訪ねてみよう。

歌枕の地を!


裏は浦

2018-12-22 08:44:08 | 日記

裏は浦

平成30年12月22日(土)

 今日は、南瓜とゆずの恩恵を

受ける日!

 ゆず風呂は特にゴージャスな気分

を醸し出してくれる。

 ゆずは、近所の方がくださった。

 今夜の楽しみが、またひとつ増えた。

 わき水から射水へ。

 「この宮の裏に、『奈呉乃浦』の

          標柱あり」

 というメモ書きがある。

 再度放生津八幡宮へと足をのばす。

 3度目の参拝。

 

 社殿の木彫の阿吽狛犬に

再度感動と感謝!!!

 もう一度じっくり境内を徘徊。

 神輿の館もある。

 裏へと足を、さらにのばす。

 裏は、浦であった。

奈呉乃浦だ。

「くろべ四十八が瀬とかや、

数しらぬ川をわたりて、那古と

云浦に出。

 擔篭(たこ)の藤浪は春ならずとも、

初秋のあはれ訪ふべきものをと、

人に尋れば、

『是より五里、磯づたひして、

むかうの山陰に入り、蜑(あま)の

苫(とま)ぶきかすかなれば、

蘆の一夜の宿かすものあるまじ』

と 、言ひおどされて、加賀の国

に入る。

  早稲の香や 分け入る右は 有磯海 」

と『奥の細道』の「那古浦」には記され

ている。

 当時の俤は、今は朧?