貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

石巻の長谷寺は、「ちょうこくじ」と!

2022-11-25 10:49:55 | 日記
令和4年11月25日(金)
石巻市: 長谷(ちょうこく)寺  
 
 芭蕉は、
「袖の渡り・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなど
よそめにみて、遙かなる堤を行。」
と、『奥の細道』で表しているように、
北上川に沿って行く。
 心細かった心境も吐露している。
 「かやはら祭り」の歌謡にも
「芭蕉の跡よ。」
と歌われ、
<かやはら祭の説明>

「長谷寺の由緒」にも
『奥の細道』に触れている。
 長谷寺は、「ちょうこくじ」という。
「はせでら」と、つい読んでしまう。
<長谷寺本殿>
<長谷寺の由緒>

<山門>

<紫陽花が参道を!>


 紫陽花がきれいに咲いていた。
 そして、
馬頭観音や諸々の石碑がまとめてあるが、
今ひとつ説明がほしい。

 歌碑や句碑等記録は
残っていないのだろうか。

 
 ちょっと口惜しい感あり。

 

 この田園地帯にも津波が
押し寄せたそう。
 土塁を数段高く積まれていた。
 三分の一は畑作に。


歌枕「をぶちの駒」

2022-11-24 10:46:11 | 日記
令和4年11月24日(木)
石巻市: 零羊崎(ひつじさき)神社   
 
 創建年代は不詳。
 安永元年(1772年)の
『封内風土記 巻之13』では、
応神天皇の勅によって、
西国から湊邑竜巻島(現在の牧山)に
鎮座したと述べている。

阿吽像

 
 「涸満瓊別神(ひみつにさけのかみ)」
という神名を賜り、
東奥鎮護の神として、
牡鹿郡龍巻山に祀られたと伝わる。
 神社名の「零羊崎(ひつじさき)」は
涸満瓊別神にちなみ、
龍巻山は龍の字が取り除かれて
「牧山」と呼ばれるようになる。
 平安時代に、
馬の牧場が歌枕になったもので、
「をぶちの駒」として用いられる。
<歌枕「をぶちの牧」>

 後撰集に、詠み人不祥の歌。
「みちのくの 
  をぶちの駒も 
     野飼ふには 
  荒れこそまされ 
      懐くものかは」
の碑が
「奥の細道紀行300年記念」
 に建立される。


句碑・石碑の多くある歌枕の場所・石巻では 宿探しに一苦労?

2022-11-23 10:18:03 | 日記
令和4年11月23日(水)
石巻市: 住吉(大嶋)神社        
 通称は住吉神社。
 鎮座地名も住吉町。
 祭神も住吉神。

 社前の川岸に、
「袖の渡り」
という名所がある。

 北上川対岸への渡し船が出ていた場所で、
歌枕として有名らしく、
芭蕉も当地を訪れている。

 河合曾良の旅日記に、
「帰りニ住吉ノ社参詣。
  袖ノ渡リ、鳥居ノ前也。」
と記されている。

 芭蕉は、『奥の細道』」の
「石巻」の項で、
「~ 終に路ふみたがえて、
石の巻という湊に出。・・・・。
思ひかけず斯かる所に来れる哉と、
宿からんとすれど、
更に宿かす人なし。
漸(ようよう)まどしき小家に
一夜をあかして、
明(あく)れば又しらぬ道
まよい行(ゆく)。
 袖のわたり・尾ぶちの牧・
まのの萱はらなどよそめにみて、
遥かなる堤を行く。
・・以下省略」
と述べている。
 大嶋神社には鐘楼がある。
 神社に鐘楼?      
 これは、江戸時代に寿福寺という
お寺がこの境内にあり、
その名残だそう。
 津波にも耐えた。      
 袖の渡しは、常緑の松に囲まれ東屋が
ある渡し場であったが、
津波で松も東屋も流され、
枯れた松が残っていた。
    
 道標には、石巻街道、金花山道、
一関街道となっている。
<石巻街道の説明>

 説明板によると、
 「石巻街道は、
仙台城下と石巻を結ぶ道で、
この街道から北部への道として、
涌谷・登米道、気仙道が分かれていた。
 金花山道は、石巻から山鳥に至る道で、
金華山への参詣の道として利用された。
 一関道は、
石巻から登米を経て一関に至り、
奥州街道と接続する道でした。」
とある。
 <句碑もあり、石碑群>

 さて、「袖の渡し」の先端の松の木の下、
川の中に「石の巻き石」が見える。
 仙台藩が編纂した
封内風土記(ほうないふどき)には、
「古来伝えられた説によれば、
地元の人が(石巻石)と呼ぶ巨石が、
住吉社の前にあり、
形が烏帽子に見える。
 その石の周りに水の渦が回って
自然の紋ができ、
物を巻いたように見えるところから
「石旋/イシノマキ」
と呼ばれるようになり、
そこから地名が生まれた――。」
という。
 津波で枯れた松の横、
川の中に見える石が、
地名の由来となった巻き石。
 今回は、数多い石碑の読み取りや
復興の実情に気をとられてしまった。


文学碑や芭蕉・曽良などの像の復元を期待!

2022-11-22 11:10:53 | 日記
令和4年11月22日(火)
  元禄2年(1689)に、
松尾芭蕉と曽良が訪れ、
二人は石巻の繁栄ぶりに驚いたよう。

芭蕉の句は、
「雲折々 
  人を休める 
    つきみかな」
<芭蕉句碑の説明>

 日和山は全国に約80カ所あるといわれる。  
 江戸時代千石船の出入航の日和を
見る場所や航路目標の重要な山、
日和山東南の中腹に
「マネキ」という航路を
指示する場所があったという。  
 高さ56mの北上川河口に位置する
孤立丘に建立。
 6年以上たっても
復興中の真っ只中といった感あり。
 江戸時代から桜の名所としても有名。
 小野寺鳳谷(1810~1866)による
『仙臺石巻湊眺望之全圖』
にも石巻の繁栄ぶりが、
パノラマ風に描かれている。
 大正初期に公園整備され、
桜の他つつじで彩られる
憩の場として今日に至る。

 何の句碑?芭蕉のかな?

 吉田松陰・志賀直哉、井伏鱒二、
廣津和郎、宇野浩二等も眺望を楽しみ、
芭蕉、保原花好、石川啄木、
宮澤賢治、斎藤茂吉、種田山頭火、
釈迢空、新田次郎、山形敞一等、
多数の文学碑や、
川村孫兵衛、芭蕉曽良像等の像が
建てられているというが・・
 今はなき?
 地震の被害?
<北上川河口>

 なお、石巻という地名は、
天足別命と阿佐比古命の乗った船が、
現在の石巻の沿岸へ到着し停泊した時、
錨が石を巻き上げたという伝承だという。


芭蕉 石巻の繁栄に驚嘆! その1

2022-11-21 10:48:52 | 日記
令和4年11月21日(月)
石巻市島市: 鹿島御子神社  

 
 またの名は,
「日和山神社」。

 御祭神として
軍神・武神・剣神・雷神・地震鎮めの神
とされ、
鹿嶋市の鹿島神宮の祭神である
武甕槌命(たけみかづちのみこと)と、
武甕槌命の御子神である
鹿島天足別命(かしま あまたりわけのみこと)
祀っている。
  元禄2年(1689)に、
松尾芭蕉と曽良が訪れ、
二人は石巻の繁栄ぶりに驚いたよう。
<芭蕉句碑と説明>

芭蕉の句は、
「雲折々 
  人を休める 
    つきみかな」
~つづく。