貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

扇引き裂く・・・福井市天龍寺芭蕉塚

2023-05-11 16:11:35 | 日記
令和5年5月11日(木)
福井市:  天 龍 寺     
<山門>
         
 天龍寺は、
福井市郊外の松岡町にある松林の
麓にある曹洞宗の大本山永平寺の
末寺。
 1653年に
松岡の初代藩主松平昌勝公の命に
よって建立。
<本殿>
<芭蕉句碑>

「物書きて   
  扇引き裂く  
    余波哉」
 江戸時代には、
松平家及び家臣達の寺として
約一万坪の敷地を誇る大寺院に、
元禄2年(1689)、
松尾芭蕉が訪れ、
このような句を残す。
<芭蕉塚>
<芭蕉塚説明>

 そして、もう一つ。
芭蕉と北枝の別れの銅像。
「余波の碑」だ。
~つづく。

永平寺その2 「生死の中の雪かな」・・・震撼をおぼゆ!

2023-05-10 11:59:43 | 日記
令和5年5月10日(水)
芭蕉は、『奥の細道』では、
「五十丁山に入りて礼す。
 道元禅師の御寺なり。
 邦畿千里を避けて、
 かかる山陰に跡を残し給ふも、
 貴きゆゑありとかや。」
と記している。
 山頭火の句碑がある。

「生死の中の雪 降りしきる」 。             
 座禅修行の真っ最中で、
参拝することができない所も多かったが、
建物とともに言葉の重み、
心身とも震撼を覚ゆひとときを過ごす。


永平寺その2 一対の石柱と「吉祥閣五訓」の教え!

2023-05-09 11:24:22 | 日記
令和5年5月9日(火)
 今回は、
正門の一対の石柱にも注目。  
 向かって右の石柱には、
「杓底一残水
 (しゃくていいちざんすい)」
 左の石柱には、
「汲流千億人
 (流れを汲む千億の人)」
と彫られている。

 調べると、
永平寺の第七十三世住職、
熊澤泰禅禅師が作られた
四句からなる五言詩の後ろ二句を
刻んだもの。
 この漢詩の前二句は、
「正門当宇宙」 
「古道絶紅塵」
と詠まれている。
 最初から順に読むと、
 「正門は宇宙にあたる。
古道は紅塵を絶す。
杓底の一残水(しゃくていいちざんすい)
流れを汲む千億の人」
となる。
 それは、
「正門は人知をこえた真理の世界、
すなわち仏の教えの入り口である。
 道元禅師が教えられた、
そして古人が歩んでこられた道(教え)は
人間の様々な心の垢を除き去ってくれる。
 柄杓で汲んだ水で手を洗い、
そして、
柄杓の底に残った水を川へ還された
という道元禅師。
 その風を慕い、
多くの人がまた永平寺の門をくぐって
その教えを汲む。
 永平寺の境内には
川が豊富に流れていて、
年中絶えることがない。
 かつて食べ物やその他のものが
十分になかった頃でも、
水が不足することはなかった。
 そのいくらでもある水でさえ
粗末にしてはいけない、
大切にするように。」
という道元禅師の教えを意味する。
今も
「吉祥閣五訓」

として英々と受け継がれている。



永平寺その1 出家道場としての最適な聖域!

2023-05-08 10:47:55 | 日記
令和5年5月8日(月)
福井市:  永 平 寺   
<深掘りの永平寺標柱>
           
 永平寺は、
今から約七百七十年前の寛元2年(1244)、
道元禅師によって開創された
出家参禅の道場。
 大佛寺山に拠って、
渓声山色豊かな幽邃の境に
七堂伽藍を中心とした大小70余棟の
殿堂楼閣が建ち並んでいる。
  四度目の参拝かな?
<正門:一対の碑文>

  境内は
約10万坪(33万平方メートル)の広さ
をもち、
樹齢700年といわれる鬱蒼とした老杉に
囲まれた静寂なたたずまいは、
出家道場として誠にふさわしい霊域だ。


 見事に磨かれ、
いつも己のたたずまいを見直す機会
となっている。
<覚皇寶殿>

~つづく。


坂井市称念寺:夫婦愛物語と芭蕉の師弟愛の句!

2023-05-07 15:41:54 | 日記
令和5年5月7日(日)
坂井市:  称 念 寺              
 称念寺は
721年(養老5)から続くといわれ、
福井を代表する史跡の一つ。

 「太平記」で有名な、
南北朝時代の武士、
新田義貞公の墓所。
<新田義貞公の墓所>
<その説明>

 また、
明智光秀がこの寺に身を寄せ、
門前で寺子屋を開いたという
言い伝えもある。
<新田義貞公の墓所碑表示の山門>

 元禄2年(1689)8月11日、
松尾芭蕉が称念寺に立ち寄り、
光秀と家族の暮らしぶりを偲んで
詠んだ句の碑も、
境内に建てられている。 
<寺の由緒と文化財の説明>

 明智光秀公は
弘治2年(1556)に
齋藤義龍の大軍に敗れ、
妻の熈子や家族と伴に、
称念寺に逃れる。
 『明智軍記』という書物には、
称念寺住職と和歌を詠み、
漢詩を作ったことが記されている。
「称念寺門前に寺子屋を開くが、
生活は貧しく仕官の芽もなかなか・・。 
そして、朝倉の家臣と連歌の会を
催すチャンスを、称念寺の住職が設定。
 貧困の光秀には資金がない中、
連歌の会は熈子の用意した酒肴で
大成功に終わり、
やがて光秀は朝倉への仕官が叶う。
しかし、
その連歌の会の資金は、
実は熈子が自慢の黒髪を売って、
用立てたもの。  
 光秀はこの妻の愛に応えて、
どんな困難があっても必ずや天下を
取ると、誓った」
という「夫婦愛の物語」は、
称念寺門前の伝承となる。
 江戸時代の松尾芭蕉が、
「奥の細道」の旅の途中取材。
 その後、
芭蕉は伊勢の山田又玄宅を訪れる。
 又玄は貧しい神官で、
才能がありながら、
出世できないことに悩んでいた。
<芭蕉塚>

 そこで、芭蕉は弟子の又玄に、   
「月さびよ 
  明智が妻の 
     咄せむ」
の句を贈って励ましたという。 
<芭蕉句碑>
 
   
 意味は、
「又玄よ、今は出世の芽がでないが、
あなたにはそれを支える素晴らしい妻
がいるじゃないか。
 今夜はじっくり明智の妻の黒髪伝説を
話してあげよう」
という意か。
 芭蕉の師弟愛もまた深い。