『甘噛み^^ 天才バカ板!』 byミッドナイト・蘭

ジュリアナから墓場まで・・・。森羅万象を語るブログです。
ここでは、気軽に読めるエントリーを記していきます^^

[カンボジア「アンコール遺跡」講義]

2009-04-17 23:24:39 | 新・海の向こうでの冒険

★以下の更新は、「天才バカ板」シリーズでも、かなりの高アクセス数を誇っているエントリーの再々掲である。

 おそらく、累計で5,6万の閲覧者が、このエントリーを読んでくれたと思う。

  

 どうぞ、また、楽しんで欲しい^^

   ◇   ◇   ◇

  [NHKで放送中 『知るを楽しむ この人この世界(石澤良昭・アンコール遺跡)』] (2007/02/14)

▼私は、今回番組にされた内容の講義を、以前(2004/09/06)拝聴していて、それをホームページにエントリーしていたので、それを再掲しておく。

     #     #     #

 [アンコール遺跡研究の権威・石澤良昭教授の講義を受けたよ(2004/09/06)]

▼ここらで、カンボジアについて、真剣に研究しようと、周達観の『真臘風土記』を三日前に購入したことは書いた。

 古典であり、その内容は、現在の研究においてはあまり意味がないかも知れないが、とりあえず、基礎から学ぼうとして買った。

 そして、その内容から広がる仮説に対し、答えを得るべく、インターネットでカンボジア情報を得ていると、とあるサイトで、カンボジア・アンコール遺跡研究の重鎮である上智大学・石澤教授の公開講義の情報が載っていた。

 アンコール遺跡調査団のサイトであり、朝日新聞系の旅行会社の主催だそうで、翌日(9/6)開講だった。

 石澤先生と言ったら、テレビ番組『世界不思議発見!』では、<エジプトの吉村作治>と並び称される<アンコールの石澤良昭>として有名だ。

 それに、主催の「朝日新聞」系の旅行会社なんて、満更、私と関係ない訳でもない。

 てゆ~か、私と朝日新聞は、ケンカするほど仲のいい「マブ(マブダチ=親友)」であるからして、講義当日の午前中にテルして、受講の予約を取り付け、夕方に、会場である有楽町に向かうのだった。

▼講義の内容は、私には、ヨダレが出るほど楽しい内容が盛りだくさんだったのだが、それを簡潔に報告したい・・・。

 (予備知識)石澤教授らアンコール遺跡調査団の<カンボジア人中堅幹部養成プロジェクト>チームは、2001年に、バンティアイ・クデイと言う遺跡の土中から、274体の仏像を<大発見>している。

▼(大前提)アンコール朝において、アンコールワットの大伽藍は有名だが、今に残るアンコール遺跡はそれだけでは到底語れるものではない。

 アンコール文明は、東京二十三区内ほどの広さに無数の石造大遺跡を集中展開させて残している。それは、大小合わせて数百にのぼる。(ちなみに、タイ・ラオス・ベトナムにも、クメール(アンコール)遺跡は点在している)。

 また、それらは、一気に造られた訳ではなく、アンコール時代である9世紀から15世紀の26代に渡る歴代の王によって、徐々に数を増やしていったのだ。

▼アンコール建造物は、その王朝の滅亡とともに、ジャングルに埋もれて消える。もちろん、現地人は、その存在を知っていたが、建造物自体はその後の王朝の支配下にはなかった。そんな中、19世紀の中期、インドシナの植民地化に突き進むフランスの活動により、アンコール遺跡は<再発見>され、ヨーロッパの文明国に、その存在を知らしめることになった・・・。

 しかし・・・、そのアンコール文明の来歴がさっぱり分からない。アンコール朝時、記録メディアとしては<貝葉>と言うものが存在していたが、それは長期保存に適したものではなく、フランスの<再発見時>には見つかっていない。

▽(注・1) 貝葉とは? ・・・インドや東南アジアで文字を書き記すために古くから用いられてきたのが、ヤシの葉で、日本では古くから貝多羅葉(ばいたらよう)略して貝葉(ばいよう)と呼ばれてきた。「ばいたら」はサンスクリット語のpattra(葉・頁)の音写です。ヤシは世界中で二千種以上あると言われており、土地に応じて様々な種類のヤシが筆記用に用いられている。例えば、タイでは「ラーン」という種類のヤシを筆記に用いるので、貝葉を「バイラーン(ラーンの葉)」という。また、インドネシアでは、「ロンタル(学名Borassus flabellifer)」というヤシを用いるので、「ロンタル」という。(とあるサイトから拾ってきた説明です^^;)

▼<では、何が、今に、アンコール朝の歴史を伝えているのか?>

 それは、<碑文>と言うものの存在が大きい。

 石造りの寺院群の多数の箇所で、数千もの石に刻んだ碑文が見つかっている。

 その解読にも、多くのエピソードがある。例えば、インドシナにおいて、調査環境としては圧倒的優位に立っていたフランスを差し置いて、オランダ人ケルンが、その碑文の解読に成功してしまうのである^^; (・・・ケルンは、現地に行った訳ではない)。

 その碑文には、梵語と土着の古クメール語が並列されており、梵語は特に宗教の為の用語であり、数人の王の名が記されていることが分かった。(碑文の文字は、その他の文字が確認されているものもあるが、主に、上記の併記碑文か、上記の片方だけのものである)。

 フランスも巻き返しを図るべく、地の利を生かし、碑文を多数収集、本国の梵語学者(ベルゲーニュやバルト)に解読・訳出を依頼し、アンコール遺跡の概要と、アンコール王朝史の年代的大枠組をほぼ明らかにし、さらヒンドゥー教と仏教の存在を確認した・・・。

▼フランスは1900年に、インドシナ仏印3国及び東アジアの民族・歴史・文学などを総合的に調査・研究する機関として「フランス極東学院」をベトナムに設置し、しばらくして、カンボジア・アンコール遺跡の清掃から手をつけ、管理・調査・保存・修復などの仕事に着手する。

 (注・2 もっとも、極東学院は、満鉄調査部のように、当地の経済効果を考えるシンクタンク的意味合いの存在でもあった)

 その活動の中で、フランス極東学院は、多くの碑文を発見し、それにより、飛躍的に、アンコール朝(真臘)史の空白を埋めていった。それまでの俗説や言い伝えからの憶説をどんどん塗り替えていった・・・。

▼<では、碑文には、どんなことが書かれているのか?>

 碑刻史料は、遺跡の中の厚い石板や石柱、あるいは建物入口の側壁や門柱に刻まれていることが多い。大きさは、高さ1~3メートル、横幅は、1~0.5メートルほどである。

 碑文は、左上から横書きで書き始まり、その言語は先に記したもの(梵語・古クメール語)に代表される。碑文の大部分はアンコール時代全盛の9~12世紀に刻印されたものだ。

 さて、その内容だが、残念ながら、当時の庶民の生活が垣間見られるような類の内容ではない。

 では、石澤教授の『カンボジア史の構築に見られる碑刻文史料 ・・・揺れ動く研究成果を再確認する碑文史料・・・(上智大学史学家50周年記念論文集)』からの引用・・・。

『・・・これらカンボジア碑文は、言語系統からいうモーン・クメール語族に属し、それらは言語学分野の最も古い格好の研究材料となっている。これら碑文を刻ませたのは、王、王族、高官、バラモン、有力者、地方の長などである。碑刻石板・石柱の設置場所は、ほとんどの場合寺院の塔門や入口の処であり、何といっても諸神、仏への帰依・事跡・寄進奉納等の内容が多く書かれ、祖先への景仰文や王への讃辞が長々と綴られている。梵語碑文では主として神々、仏への祈求文、王(族)および高貴な家族の系譜やその徳行のことが多く書かれ、呪詛文で結ばれており、どちらかというと宗教的色彩が強い。
古クメール語碑文では、王の命令、寄進財貨の目録、khnum(奉仕者)と呼ばれる人たちのリスト、土地の境界、田地の交換、共有的・専有的権利の明示がなどが載り、主として日常生活の諸事が刻みこまれている。しかし、その記載内容は、多くの場合前後のつながりがなく、個別的であり断片的である。・・・(ちょい略)・・・ それに加えて、石面剥離や破損により判読できない箇所が多くあり、碑文の数量の割には当時の社会について貧弱な内容しか知ることができない。そして、ほとんどの碑文が宗教・喜捨および王権に関する言及であるために、王を頂点とする一握りの人たちの活動しか判明しない。それ故に、古代カンボジア史の中では、どうしても、王(族)および王の政務に直接関与する人たちの歴史が描かれてしまう結果となっている。
カンボジア碑文の解読が開始されて140年あまり、この間に、歴史・言語・考古・美術・建築等の各分野の専門家により様々な考察がなされ、仮説がつくられ、より正しい歴史像把握のために諸研究成果が積みあげられてきた。
それらの研究成果は、碑文の性向からどうしても王朝史、美術、宗教等の分野に片寄りが見られるのであった・・・』

 なかなか、碑文からは、民族・民俗学的考察は得られにくいと言うことですね。

▽ちなみに、アンコール・トム(王都)の中心寺院<ヴァイヨン>の、第一回廊壁面には高さ8メートルの壁面全体に、当時のジャヤヴァルマン7世(建寺王)がチャンパ軍を象軍団で蹴散らした戦闘図や、クメール軍の行進、水軍の戦闘場面、当時の貴人や庶民の日常生活の情景があますところなく描かれている。闘鶏や漁撈の図、闘鶏などは、お金を賭けている者の姿が見える。魚は、その形、ウロコまでも精巧に彫られ、その魚の種別まで特定できるほどの緻密さ! 天秤で金か何かを量っているような図も見られ、アンコール期の庶民の生活様式が窺えられる最高のロケーションとなっている・・・。

▼さて、とは言え、碑文からも、なかなか人間臭い動きが読み取れる。

 <サーダシーバの碑文物語>

 サーダシーバは、十一世紀初頭の人物である。彼は、永い間(約250年前から)、王室の神王祭儀に専従した世襲の聖職者家系(マスター・オブ・セレモニー)の、当時の長であった。王の即位式も、国家鎮護の祭祀も、この一族が取り仕切ってきた。

 そんな折り、王ジャヤヴァルマンⅤ世が逝去した。・・・カンボジアでは、その王統は現在のシハヌークまでの61代まで連綿と続いてはいるが、かつてのそれは親類縁者の武力闘争の形を取ることが多かった。親と子、甥と叔父の戦争なんてパターンが多かった。勝利者は、後から、王権の正当性を証明するのだ。そこに活躍したのが、宗務世襲家系だったのかも知れない・・・。

 で、ジャヤヴァルマンⅤが亡くなった後、三人の候補者が、国土を三分し、覇権を競ったと言う・・・。その三人の名前は似ていて混乱するだけなので「A」「B」「C」にしておく。「A」は早々と脱落し、さて「B」と「C」のタイマン勝負になった。

 そんな中で、サーダシーバは、正当な王位継承者として「B」を推した。しかし、武力闘争に打ち勝ち、実質的に王権をものにしたのは「C」・スーリャヴァルマンⅠ世だった。

 サーダシーバは、立つ瀬がなかった^^;

 スーリャヴァルマンⅠの方も、そんなサーダシーバに、自分の王権の祭式を執り行う権利を与えたくなかった・・・。故に、サーダシーバとは別に、その宗務家系の分家より、新たなる聖職者を登用するのだった・・・。

 だからと言って、聖職に仕えていた身であるサーダシーバを殺害しようとするようなことはなく、閑職につけ、「飼い殺し」状態にするのだった。

 サーダシーバの復権(?)は、それから五十年近い、十一世紀に為される。サーダシーバを冷遇したスーリャヴァルマンⅠは、ことのほか長く在位し、半世紀後(1052年)にやっと、他の王の台頭を迎える。

 ここにおいて、サーダシーバは立ち上がるのだ。自分が、802年から始まる250年に渡る由緒正しい宗務家系の長であることを! 歴代の王に仕えてきた崇高な世襲家系であることを!

 そして、不退転の決意をもって、新王ウダヤディティヴァルマンⅡ世に直訴の形で善処を乞い、その上奏文を碑文に刻み込むのだった。

 そこには、それまでのサーダシーバの一族が仕えてきた王統の歴史が詳しく書かれていた。

 それはイコール、サーダシーバの宗務家系としての正統を示すものである。

 つまり、サーダシーバはウダヤディティヴァルマンⅡに直訴するとともに、やんわりと<脅し>もかけているのである。『俺らに認められなきゃ、あんたは正統なカンボジアの神王にはなれないんだぜ!』・・・とても、人間臭いサーダシーバである^^

 そして、そのアンコール朝の初期から中期にかけての王統を記した書は、今までの貝葉に書かれたものではなく、サーダシーバの絶対に譲れない決意を、永遠に伝えられるメディア<石板(正確には四角石柱)>に刻み込んだ訳であり、こうして、現在の我々も目に出来るのである。

 この、サーダシーバの刻んだ「スドック・カック・トム碑文」の解読によって、カンボジア史は、また幾つものページを増やしたのである。

 石澤教授は、こう文章を締めている。

『・・・現存する碑刻史料は、少数の人たちが奉納した特殊な文書ではあるが、そこに記載されている内容は、彼らの考え方や価値判断を最も端的に表わした当時の社会の重要な記録である。その意味において、碑文内容が断片的であっても、また特定の事柄に偏向した記事を掲げていても、その当時の社会を知る重要な史料であり、手がかりと言わねばならない。従って、碑文拓本に綴られている文節を一字一句注意深く解読していかなければならない。それにより碑文を創出した人たちのその時代の風を部分的ながら捉えることができる・・・』

▼一回で終らせたかったのだけど、続きます。今回は『碑文篇』でした。次回は、『廃仏篇』です。石澤教授たちが、世紀の発見の末に見い出したフランス極東学院の<過ち>、そして、周達観『真臘風土記』の<真実>とは!? 待て、次号ッ!!

                           (2004/09/07の更新の再掲)

   ◇   ◇   ◇

 私は、カンボジアには、丁度10回行きました。

 それで一つの区切りとして、しばらく間を置いています。

 カンボジアには、私の青春がありました^^

  

 プラタナとか、ワンニーとか、その笑顔を見るだけで、一年は幸せでいられるような娘っ子たちがいたんです・・・。

  

                           (2009/04/17)



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