吉良吉影は静かに暮らしたい

植物の心のような人生を・・・・、そんな平穏な生活こそ、わたしの目標なのです。

コリン・ウィルソン音楽を語る(冨山房/1970年9月10日初版/1989年10月14日新装版第1刷)

2017-12-04 08:26:33 | 紙の本を読みなよ 槙島聖護
 今回の本の紹介はメモ的な記述になることをご了承ください。


※コリン・ウィルソン音楽を語る

 ・・・と、いうのは私には音楽的な素養がナイため、まだちゃんと読みきれてナイのだ(中途半端な状態でスマン)。
 いずれ完読し、理解したあかつきには記事を更新して再アップしますから、今回はコレでお許し戴きたい、と思います。

 作者は『(あの)アウトサイダー』を書いたコリン・ウィルソン、何と(!)独学で知の巨人となった天才です。

 この方が音楽について語る・・・というのでこれは楽しみ・・・なのですが(悲しいかな)この本を読むためには大量のクラシックから現代音楽、果てはジャズまで聴きまくらないと書いてあることが理解できない・・・( ノД`)シクシク…。

 今回は、ねこてんさんのためにマーラーの項を紹介して、お茶を濁しておきます。


※グスタフ・マーラー(1860-1911)

 (ブルックナーと同様に)マーラーも小男であった。しかも、反ユダヤ主義が文化的流行をなしていた時代に、ユダヤ人として生きたのだ。ブルックナーよりずっと異彩を放ち、敏感だった彼にとって、この二重のハンディキャップはたいへんな重荷となり、これが彼に与えた苦痛、彼から奪った精神的エネルギーは多大なものであった。彼の場合も、生まれついての不幸を嘆いて当然だったのだ。彼は十四人家族の一員で、御者から醸造主となった男の息子だった。家族は、しょっちゅう貧困に陥り、ふきんを窓のすきまにつめて、風を防がなければならなかった。彼は、あの輝かしい才能を -おそらくワンマン的気性も含めて- 父から、また感受性を、足の不自由だった母から、それぞれ受け継いでいる。両親は、うまが合わず、父は母をいじめつけた。マーラーがまだ年少のとき、両親は相前後してなくなった。十二人の子供のうち、一人は事故で、五人はジフテリアで、一人は脳腫瘍で死に、一人は自殺した。マーラーは、悲劇的な運命にとりつかれていると感じていたらしいが、合点の行くことである。十一歳のとき、音楽を習うためプラハへ送られたが、一年間ひどい待遇をうけ、とうとう帰郷して、土地のギムナジウムへ通った。のちウィーンに学び、二人の若い音楽家、フーゴー・ヴォルフとハンス・ロットの親友になった。二人とも、やがて発狂して死ぬ。
 (中略)
 アルマ・マーラーによると、あの全く頑固な性分は、父方の祖母ゆずりではないかという。このおばあさんは行商人で、八十歳になっても、相変わらず一軒一軒歩き回っていたらしい。マーラーは、並外れた才能をもちながら、困ったことに、交際能力がほとんどなかった。音楽家たちが彼を激しく嫌ったというのも、彼がかれらとの間に一線を画して、仲間扱いを許さなかったからである。
(後略)

 略歴だけでもこの楽しさ。大量の文献をあたり、それを自分の言葉で語っているこの才能は素晴らしいと思います。

 更にこれが評論になるとプロの音楽評論家もタジタジの文章に・・・。

 マーラーの音楽は、その内容からもブラームスのものに近似しているといえよう。しかしブラームスの主観性と憂鬱感が、古典主義的な枠をはめられているのに反して、マーラーのそれはワーグナー的な増殖力をもって拡がるのだ。


 (いつになるのか)読了後の記事更新を待たれよ!