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第二部は主に柿本人麻呂に関する新しい考察をまとめたものです。
※柿本人麻呂像(鎌倉時代/京都国立博物館蔵)人麻呂は老人の姿で描かれることが多い。
著者はすでに『水底の歌 - 柿本人麿論』で人麻呂に関する新しい仮説を世に問い、学会に衝撃をもたらしたワケですが、この本ではさらに新しい発見を踏まえて『柿本人麻呂こそが原古事記の作者であり、現古事記はそれを改訂したものである』という説を展開するのです。
従来柿本人麿呂は下級官吏であったとの説が一般的だったのですが、著者はそれに異論を唱えます。
天皇に付き従い、朝廷を代表して歌を詠む、そのような役割を下級官吏が行うことの方がオカシイのではないか、と。これは、ごく当然なことであるように思われます。
賀茂真淵による古事記の解釈はまことに優れたものでしたが、やはり偏った解釈だったのではないか、と。
ところがいったん権威が確立されてしまうと、賀茂真淵の説に異を唱えるという考えに至らず、それが固定観念化してしまう。学会とかアカデミズムの弊害が出てくるワケです。
この講演ではさらに自説を考察し直して、和銅5年に成立した『古事記(現古事記)』に先立つ『原古事記』が天武天皇の時代に成立していて、その作者こそが柿本人麻呂その人ではないかという仮説を展開しています。さらに原古事記よりも遡る記紀の成立は聖徳太子の手によるものではないか、とも。
歴史撰修の事業が聖徳太子と蘇我馬子によって始められ、現在の『記紀』がこの太子と馬子によってつくられた天皇記すなわち帝紀、本記すなわち本辞の名残りを留めていることは、おもに次の二点によって証明されます。
一つは日本の記年法なのですが『古事記』でも『日本書記』でも天皇の治世がはなはだ長い。太古の天皇は、多く八十歳」、九十歳、場合によっては百歳も百五十歳も生きていらっしゃったと考えねばならない。これはどういうわけか、これに対して学者たちは次のように答える。
つまり記紀の記年法は推古九年(601)を起点にしてつくられている。この推古九年は辛酉の年にあたり、辛酉の年は識緯の説で革命の年とされる。また識緯の説では六十年を一元として、二十一元を一萌とし、一萌を歴史のワンサイクルと考える。(後略)
天皇の治世があまりに長すぎるという矛盾は『推古九年から一萌すなわち千二百六十年遡った年を(推古天皇の三十三代前とされる)神武天皇の日本建国にあてはめた結果である』というワケです。
推古九年が記年法における起点なのであれば、この頃に最初の編纂事業(帝紀および本辞)が始まったと考えるのが妥当です。この『帝紀』および『本辞』をもとに天武天皇の時代に『原古事記』が成立した、というのです。
その理由として『現古事記』よりも以前である持統四年に人麻呂が詠んだ歌(近江の荒れたる都を過ぐる時に作った歌)に『現古事記』の内容が先取りされていると傍証しています。
この人麻呂の人生と作品を賀茂真淵は自らの「万葉集を『ますらおぶり』の歌集であるとする説」に合うよう加工している、と糾弾するのです。
※柿本人麻呂の人生と作品に関する考察
ワクワクするような認識の冒険へと誘ってくれる本です。オススメします。
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