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吉良吉影は静かに暮らしたい

植物の心のような人生を・・・・、そんな平穏な生活こそ、わたしの目標なのです。

P.カレル『砂漠のキツネ』⑨(フジ出版社 / 昭和46年4月15日5版発行)

2018-08-07 06:11:07 | 紙の本を読みなよ 槙島聖護

(承前)

【北アフリカ全図】


9.最後の大作戦

 ドイツ・アフリカ軍団は超人的な努力で7月を持ちこたえた(攻撃してきた英軍一個旅団をたった1門の88ミリ砲がくい止め、英軍は96台の戦車を30分で失った、というギュンター・ハルム照準手の逸話はこのときのもの)。


※88ミリ砲・・・後にティーガー戦車の主砲にも採用された、ドイツ軍の主力兵器。

 エル・アラメインの戦いはアフリカ戦線での重要な転回点となった。

 英軍には新司令官モントゴメリーが着任した。慎重な人物で危ない橋は渡らない、物量の優位を信条とする・・・『危険な男だ』とロンメルは直感した。

 本来は補給に有利な防衛地点まで後退することが最善の策であったが、ヒトラーとムソリーニはロンメルに『後退するな。持ちこたえよ』と命令した。すると答えはひとつ、不利な状況であろうと攻撃しかない。もう一度、全てを一枚のカードに賭けるのだ!

 『7月はじめ、われわれは疲れていたし、いろいろ問題もかかえていた。それでもアラメインに前進したのは、英軍がもう一度アレクサンドリア全面に陣地を築き、物量戦になるのを避けたかったのだ。9月中旬になれば英第8軍は圧倒的に強化され、わが軍には手がつけられなくなると思う

 1942年8月30日、ロンメルの命令が下った。

 『将兵諸君!本日わが軍は新師団の増強のもとに敵軍を最終的に撃滅するべくふたたび攻撃に移る。各人がこの重大なる時にあたって最後の力をふるい起こさんことを期待する

 この計画こそはロンメル畢生の大作戦だった。



 イタリア第20軍団と第90軽師団が敵を釘付けにする間にDAK本体が南のカラク高地からルエイサト丘陵を超え、英軍北翼とその背後の予備軍を包囲殲滅する。敵軍を殲滅した部隊はそのまま前進しアレクサンドリアとカイロを占領する、という壮大な計画だった。

 ロンメルは例によって囮となる案山子戦車を南方に配置した。が、今度はわざと囮と分かるように仕向けたのだ。これを見れば英軍は南方への攻撃はないものと思うだろう、と。

 しかしこの計画を英軍は暗号解読によりキャッチしていた。前進を阻まれるドイツ軍。
 敵軍の後ろに回るチャンスは失われてしまった。もはや予定より早く転回しアラム・ハルファを直接攻撃で占領するしかない!


※敵軍の後ろに廻り込む『大解決』が不可能になったドイツ軍は『小解決』を選択した。

 しかし制空権を握った英軍の物量に敗れドイツ軍は取り返しのつかない大敗を喫したのだ。
 9月1日、ロンメルは後退を決意し、続く3日間の激烈な退却戦を経て6日間の戦闘は終結した。

 (つづく)


P.カレル『砂漠のキツネ』⑧(フジ出版社 / 昭和46年4月15日5版発行)

2018-08-06 06:28:56 | 紙の本を読みなよ 槙島聖護

(承前)

【北アフリカ全図】


8.熱砂のエル・アラメイン

 『エル・アラメインを包囲し、わが軍の機甲師団が南方に展開する敵の背後に出れば、マルサ・マトルーの場合同様、敵は壊滅するであろう』とロンメルは語った。


※ドイツ・アフリカ軍団のあたらしい仲間②『軽駆逐戦車ヘッツアー』・・・『カメさんチーム』でお馴染み

 ドイツ・アフリカ軍団(DAK)は6月30日のうちに南のカタラ低地に向かい、60キロにわたるアラメイン戦線の南端を攻撃するかにみせかけ、暗くなり次第北東に進路を変えて、エル・アラメインの鉄道駅まで20キロをつき進むのである。夜にまぎれてDAKの各師団はアラメインとデイル・エル・アビュアドの中間をすりぬけて敵の背後に出、第90軽師団はマルサ・マトルーのときのように南に迂回、海岸通りに出てそこを封鎖し、同基地を孤立化させることになった。



 しかし計画通りには行かなかった。エル・アラメイン南方は走行に適さない地形のうえ、砂嵐に阻まれてスケジュールに遅れが生じ、英軍はその間に防衛体制を整えてしまったのだ。

 第90軽師団は南アフリカ第1・第2・第3旅団の猛砲火に遭遇して大損害を被った。
 DAKはルエイサト北方に陣地を築いた南アフリカ第1旅団を撃滅したが,この戦闘で55台しか残っていなかった戦車のうち実に18台を失った。
 アリエテ師団(イタリア)はまるでお話にならなかった。マオリ兵に蹴散らされ、持っていた大砲を全て奪われる始末で、DAKは側面からの攻撃に晒されることになってしまった。

 損失の多い戦闘を避けて敵の裏をかくロンメルの作戦は挫折した。

 ロンメルは諦めず重火器を投入したが、もはやDAKの戦車は26台()しか残っていない。これではどう足掻いても突破は無理だと判断せざるをえなかった。
 7月3日の夜、機甲軍は停止し、塹壕を堀って英軍の攻撃に備えることになった。
 英国艦船がアレキサンドリアを出港し、英軍本部がカイロを放棄していたまさにその時、ドイツ・アフリカ軍団は力尽きて砂漠に斃れたのだった。

 (つづく)


P.カレル『砂漠のキツネ』⑦(フジ出版社 / 昭和46年4月15日5版発行)

2018-08-02 06:09:42 | 紙の本を読みなよ 槙島聖護

(承前)

【北アフリカ全図】


7.マルサ・マトルーの戦い

 トブルク要塞を陥落させたロンメルは全軍に命令を下す。
 『アフリカ機甲軍の将兵よ!いまや敵を全滅させるべきときである。近日中に本官は、最終目標に達すべくもう一度諸君の努力を要求することになろう

 最終目標!それはナイルだった。

 当初の計画では、機甲軍はエジプト国境で停止し、海空軍戦力の準備が完成して、パラシュート部隊がマルタを占領するのを待つはずだった。ケッセルリングは当初の計画通りマルタ占領を待つべきだと主張したがロンメルがこれに反対(ムソリーニのマルタ攻略はいつ実現するというのか?)し、最後はヒトラーがロンメルを支持してナイル・デルタへの攻撃が決定された。

 ロンメルは焦っていた。 
 『英軍に時を与えたら、わが軍は撃破されよう。ケッセルリングがマルタと英海軍を制圧してくれたおかげで補給は良くなっているが、十分な兵力、ことに重資材はそれほど早く手に入らない・・・つまりわが軍は待ってはならない。つねに英軍の出鼻を挫かなくてはならない』・・・苦しい決断だった。

 しかし、ドイツ・アフリカ軍団の消耗は激しかった。


※マルサ・マトルーの戦いで見せたロンメルの大胆な作戦(1942年6月26日~27日)

 マルサ・マトルーの戦いで、ニュージーランド軍は山刀を振りまわすマオリ兵部隊を投入し凄まじい白兵戦となった。
 ドイツ軍は英軍を包囲しこの戦いに勝利したものの、いかんせんドイツ軍の兵力が少な過ぎたために、イギリス歩兵部隊主力を捕虜にすることはできず、包囲された英軍の大部分が脱出に成功するという結果を招いた。
 脱出した歩兵部隊は再編成され、アレクサンドリアを防衛する英軍最後の防衛線エル・アラメイン戦線に投入されてしまったのだ。

 戦いに勝利したロンメルはすぐさまドイツ軍に前進を命じる。
 『アレクサンドリアに入るまでは停止してはならん
 ドイツの勝利は間違いないもののように思えた。勝利に手が掛かっていたのである。アレクサンドリアとカイロが落ちれば、イギリスは世界帝国の座から滑り落ちる。シリア、イラク、ペルシアはドイツのものとなり、トルコもドイツ側につかざるをえなくなる。トルコが中東方面からのソ連侵攻への拠点となるのだ。
 いよいよカイロを占領し、名だたるシェファード・ホテルのバーで祝杯を挙げる日がきたのだ!


※アフリカ軍団のお荷物と言われたイタリア軍に待望の新型戦車が登場・・・M41型セモヴェンテ(自走砲)



 英軍はすでにナイル・デルタを諦めスーダン、パレスチナおよびイラクへの撤退準備に掛かっていた。
 ドイツ軍はアレクサンドリアまで約85キロの距離にまで迫り、カイロでは『ロンメル門前にあり!』との報が飛び交った。この言葉には、その昔『ハンニバル・アンテ・ポルタス!(ハンニバル門前にあり!)』と叫ばれたと同様の効果があった。
 カイロではアレクサンドリアから難を逃れてきた車で道路はごったがえしていた。
 駅では憲兵隊が拳銃を抜き、難民たちが列車に乗るのを阻止していた。イギリス人を先に逃がすために!

 (つづく)