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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

山を持つこと

2016年06月07日 | 父の話

談・2003.5.18

山を持つこと

(山を所有することは、どんな意味があるのか)

山を持つゆうことだけじゃ。なんもしゃあへん。
昔から分限者はよおけえ持っとった。

たちまち、くべ木、この葉をなぜるくらい。

ええ木があれば金になる。アカマツ。
表にはええ木を売った。



麦藁

麦藁は小麦が細いんで屋根になりょうた。
小麦は売りょうた。
裸麦は憑いて食びょうた。麦稈真田も裸麦で、硫黄でさらして真田にしょうた。


茂平の二期作

(ざぶ田の)ししゅう田や沖の田は遊ばせて、乾いた田んぼは麦を植ようた。
戦時中にはざぶ田にもものを植ようた。


由久ばあさんの戸籍

(1846年生まれの由久ばあさんの戸籍は、信憑性は高いのだろうか?)

1~2年の差異はあったかもわからん。籍の届は親がしとるんで大きい違いはない。


由久ばあさんの読み書き

できょうた。
となりのおばあさはできなんだ。


城見保育所

(城見には幼稚園も保育園もなかったが、笠岡市へ合併直前に保育所ができた。
募集はどうしたか)

の寄り合いで募集した。
それまで、大門へ行くゆう人もおった。一人か二人ほど。
行く行かないは親の自由で、行くとなればお金もいる。
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日本鋼管・造船部門の笠岡進出運動

2016年06月07日 | 父の話

談・2003.3.29


日本鋼管・造船部門の笠岡進出運動

(日本鋼管の高炉に火が入る頃、その製鉄を使って笠岡地区(茂平地先)に造船部門の進出計画があった。)

福山・笠岡に、下請けができる工場が少なかった。
それがなかったら笠岡に来とる。
それで三重県(津市)に取られた。三重県はそこを突いて誘致運動をしてきて負けた。


城見の石炭の消費者

石炭ストーブが園芸、役場、学校にあった。
事務所の暖房。温めるため。
家庭にはなかった。
家庭では石炭を使うことはない。


小平井の療養所

元気のええ、遊びょうる(ほどの病状)人が入りょうた。
悪い人は早島へ行きょうた。

結核がのうなったんで廃止した。ええ薬がアメリカでできた。
あれになったら「治らん、死ぬるんじゃ」ゆう病気じゃったが、治るようになった。


笠岡の花火大会

あれは戦後始まった。ワシらが若い時にはなかった。
こまいのがあったのかもしらんが。


ハンセン病患者

めったにない病気で、城見にはおらなんだ。
笠岡でもみん。


長女の結婚

仲人と親同士で式一斉は決めていた。支度も親。ミシン、洗濯機、タンス・・・。
嫁菓子も。


(縁側の下の)ニワトリ

コメの糠と、麦の食べれんいなげなの、コメも。
5~6羽飼ようた。
貯まったら売りょうた。


(鶏小屋の)ニワトリ

小屋を建って、大部屋で一階と二階で飼ようた。新しい処で卵をよう産んだ。
いっぺんに(建設費の)元がとれた。相場がえかった。


(ゲージの)ニワトリ

ゲージでは生まなかった。生むのが少なかった。
餌を食うばあで、(養鶏業も増え)相場も落ちた。

2年目になると生まんのが増える、それはまとめて(食肉用に)売ったりしたが、(更に)元気のないのは殺して食びょうた。


ニワトリの糞

畑へもって行って肥にしょうた。


用之江の共同養鶏

あれは大じゃ。
のぶきさんらが共同でやった。
一年はえかったんじゃが、二年目に病気が来た。
どっからからか病気が移ってきて、大きな損をしたんじゃ。


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ズロース・もんぺ

2016年06月07日 | 父の話
談・2013.7.15(母の話)

嫁に来た時にゃモンペがなかった。
着物を着て畑に行きょうた。
タスキをかけて畑をしょうた。男の人もタスキの人がいた。

そしたらズボンができた。(※この時の母が言うズボンはモンペ)
絣の着物がええようた、それを全部ほどいてズボンにした。
縫い直して使ようたら、じきにあつらえたものが出だした。
(色はよごれが見えにくい)紺や黒がえかった。
もんぺができた時、ええもんができた思うた。


(ズロースのこと)

小学校の4年か5年の頃ズロースができた。
それまでは着物ばっかり着ようた。


(生理のこと)

生理の時、あかちゃんのオムツなような布を当てる。
洗濯して干してまた使ようた。
洗っても落ちんこともある。

それをくるむのも、ビニールがまだ無いので布でくるみょうた。
女学校の時分、よごれたのが分かる人もいた。学校に男がいないのでひやかしするゆうことはなかった。

あんがいに来たときに困りょうた。遅ぅくりゃあええんじゃけど。
よごれたらこまるので早めに用意しょうた。

のうなったときはくつれいだようじゃった。
よごれるのは、おおじょうしょうた。


(祖母のこと)

おばあさんは着物で、「あっぱっぱ」も着ようた。
オコシ(お腰?)、腰巻(こしまき)ようた。
腰巻は柄を変えたり、冬になれば(生地を)ネルに変えたりしょうた。
ズロースはしたことはない。(オコシの一生だった)

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曾曽祖母・由久ばあさんの話

2016年06月07日 | 父の話

曾曽祖母は弘化3年(1846)に備中国の吉浜村に生まれ、備中茂平村に嫁いだ。1男1女あり。
昭和18年(1943)岡山県小田郡城見村茂平で天寿を全うした。享年97才。
その間、弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応・明治・大正・昭和と生きてきた。
母が結婚して8ヶ月後に亡くなった(8ヶ月間同居していた)。

母に晩年の曾曽祖母の日常を聞いた。

談・2013.7.15(母の話)

いつも縁側にすわっていた。
食べるときはおじいさん(実子・管理人の曽祖父)といっしょに座って、あの頃はお膳で、箸を出して親子で並んで食びょうた。
そりゃあ元気であった。

朝は一人でちゃんと起きて、縁側に座って外ばあ眺みょうたのを覚えておる。

(母は当時90才を過ぎて正座ができなかった。椅子に座っていた)けっこうなおばあさんじゃった。
猫をかかえて、べべちゃんこをして、静かに見ょうた。


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曽祖父・利三郎じいさんのこと

2016年06月07日 | 父の話
曽祖父は元治元年(1864)に生まれ、終戦直後に伝染病で死んだ(1945)。
曽祖母は体が弱く大正6年に亡くなっている。

談・2013.7.15(母の話)

おばあさん(曾曽祖母)が言ぉた。
(曽祖父は)朝早ぅ起きて弁当をこしらえて、腰にくくりつけ、歩いて、暗いうちから芳井の奥の三原の方へ「山ぶどうがええ」いわれ探しに行きょうた。
それはあんまりねぇんじゃけど、そのころは、そうゆうもんしか薬がなかった。
その話を(曾曽祖母が)よぅしてくりょうた。

(伝染病になるまで)畑で百姓をしょうた。

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