しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

笠岡高等女学校へのあこがれ

2016年06月13日 | 暮らし
おばの話(父の妹・大正12年8月16日生)

談・2015.7.21

笠岡高等女学校へのあこがれ

※おばは城見小→城見小高等科→増川女学校→にいみ裁縫という学歴である。

笠岡の女学校に行きたかったが、いかしてもらえなんだ。


利三郎じいさんが「娘が笠岡の女学校へ行ってもろくなことはねえ」
(自分の長女の事を鑑み)と反対した。

笠岡の女学校よりも、(茂平の名家の)M家でさえ増川に行っとる。増川でええ。
そのM家の5つ年上の人が袴をはいて、上の道をとおり、西の谷を越えて大門駅までいきょうた。(服装が)かっこよかった。

仲の良い子がそろって女学校にいかなんだ。女学校に行かずに高等科に行った。
小学校の時から一番成績の良いしのぶさんは、高等から師範学校に行った。

(高小の卒業時)笠岡女学校へ進学はできるが、(同年齢者より)2年遅れるので面白うない。

次兄が福山工業にいとった。次に弟の進学も控えていた。
それで家計のことも考えて、行きたかった笠岡女学校を諦めることにした。



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憧れの笠岡女学校

2016年06月13日 | 暮らし

おばの話(父の妹・大正12年8月16日生)
談・2015.7.21

憧れの笠岡女学校(祖母の姉の話)

(祖母は4人姉妹の次女であったが、嫁にいかず養子を取った。その訳は長女が家を出て行った。
長女は祖母と違い、美人で頭がよかったようだ。
長女は明治21年10月茂平に生まれた)


利三郎じいさんは貧乏で「百姓の家じゃから女学校にいかんでもええ」言うとった。
そしたら吉浜の子なしの親戚から「うちの子になってくれるなら女学校にいかせちゃる」言う話があり、
即、「養子に行く」と本人が言った。

養家から笠岡の女学校に通うた。

ところが女学校を卒業したら東京へ逃げてしもうた。
顔が美人じゃった。
そこで恋愛して東大の先生をしょうる一家と結婚した。

(父が)東京陸軍第一病院で手術をするとき、2~3ケ月東京にいっとった。
その時、従姉ののりちゃんの家に行った。
東京の婚家は大家(たいけ)で門が三つあった。
小作人小屋もある。

東京では、のりちゃんに連れられ、生まれて初めて喫茶店ゆうところに入った。
生まれて初めてコーヒーを飲んだ。
生まれて初めてアイスクリームを食べた。

隣に陸軍の学校があり、ひろい運動場で練習をしょうた。
兄が好きなものを神楽坂で買い物をしょうた。


※祖母の姉は学校創立直後に入学しているが、
笠岡高校100周年名簿に名前がない。
中退したのだろうか?
それとも資料が不完全なのだろうか?

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祖母の髪型

2016年06月13日 | 暮らし
おばの話(父の妹・大正12年8月16日生)

談・2015.7.21

祖母の髪型

ふだんは、ほどいて、すそでくるんで、普通の頭。
写真を撮るのに特別の頭。
祝い事にしかあの頭にしていない。
頭に櫛のようなものを入れて自分でつくりょうた。


(束髪した祖母・大正8年ごろ)



(祖母が着ているもの)

あばあさんが家で編みょうた。
反物を買って。自分で縫うてこしらようた。

半纏、綿入れも縫ようた。。

利三郎じいさん(管理人の曽祖父)が綿の畑のもりをしょうた。ええ綿(わた)ができょうた。
綿木の内海の畑に綿を植えていた。
綿打ちに出しょうた。


真田講堂
小学校の西側に講堂があって、四大節(紀元節、四方節、天長節、明治節)の時やこ、渡りの廊下で講堂に行った。

奉安殿
校門から入ると右に、宿直のあたりに何かあった。が、おじぎの記憶はない。
(※・まだ奉安殿はなかったようだ)

校門を入ると金次郎さんの像は?
あったような・・気がする?(自信はなさげ)

同級生は58人で一クラス。

椅子は二人掛け。ひっついた机。

左が二列男の子
右側が二列女の子
男女が並んだことはない。


日の丸教室(日清・日露戦争の戦利品展示室は?

記憶にない。
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茂平の職人

2016年06月13日 | 父の話
父の話

談・2003.12.10


茂平の職人

(茂平は農業と漁業の村だったが、他に少数の職人がいた)

左官と大工。
(生活できる量の)仕事がありょうた。

皿山の焼物

けんさんの親父とふーさんが、
(土)ドロをもって二人して手伝い(てご)に行きょうた。
ドロはふるいでこしてから持って行きょうた。


丑の日に牛を海へ

(本によれば丑の日に、牛を海に浸ける行事があったようだが?)

あった。
夏か春の丑の日じゃ。
東の堤防の砂浜へ牛を下して海水で洗おてやりょうた。
飼ようる人は、だいたいみんな持ってきょうた。
牛は洗うてもらうことがないんで喜びょうた。
潮の満ち干があるんで、連れてくるのはだいたい時間が決まっとってにぎやかじゃった。
砂のええ時に・・・年に一回はやってやりょうた。

終戦後くらいから、せんようになったのう。


茂平の養蚕業

用之江のとの峠の畑に桑畑があった。それは地主が用之江の人。
茂平には蚕をする人はおらなんだ。
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