しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

城見小の金次郎さん

2016年06月19日 | 父の話
談・2000.9.17


城見小の金次郎さん

(終戦後、天皇の巡幸に関し
天皇の巡幸が小学校であれば、天皇到着以前に次の物を必ず撤去するよう通達が出た。
二宮金次郎像
和気清麿像
奉安殿
忠魂碑
御真影
原型をとどめないように撤去すること。
城見小に天皇は来なかったが、どう処理したのか)

城見小には金次郎像のこまいんがあった。取った。
清麿像はねえ。
奉安殿はどこでもある(ない学校がない)、取っしもうた。


岡山県農業普及員のこと
(戦後すぐに辞めた普及員のこと)
最初(城見村)役場に勤めょうた。
県の普及員は2年たつと試験を受けれるんで、役場の人がそっちの方がええから受けてみい、ゆうことで受けたら通た。
県から勤務場所は大江村役場の辞令を受けて大江にいっとった。
村農業や農家の個人の指導をするのが仕事。
個人や
村の常会にも呼ばれる。
村の人とわあわあいえる人間でないと務まらん。


兵役中の給料
(兵隊にいっているとき=休職中に、岡山県農業普及員の給与は?)
8割くらい送ってくりょうた。ありがてぇことじゃ。


城見村会議員

報酬はボランティア(程度)。
カネをもらうようになると、カネをもっとる人しか出れんようになる。
(役得というほどでないが)
議員で、東京の武徳さんのところにいこうやあ、ゆうことで行った。
議員宿舎に泊まったんで宿泊費はいらん。
観光は武徳さんが案内の世話をしてくれ
議員会館でいっぺん昼飯を御馳走になった。
汽車代を出したんと、観光費と弁当代を出した。


城見の駐在所
戦時中からおった。(寝泊りしていた)
途中、今の国道へ変わった。

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格納品

2016年06月19日 | 父の話

談・2000.9.16

格納品
食料品のことじゃ。穴を掘って隠しとった。
(陸軍)病院でも横へ穴を掘って食料品を隠しとった。


岡山空襲
(戦時の岡山陸軍病院
将校・・40、 下士官・・36、 兵・・ 92。計168人 看護婦数・・不明。
その年、国立岡山病院となり、練兵場横にあった病院棟は戦災で全焼。)
患者はよその病院へ送り。ワシは本院へ変わった。


部隊の解散
まだやる!決起する!ゆうのが、いちんち(だけ)さわぎょうた。


(HQの岡山は陸軍兵舎
弾薬処理で
和気、林野、玉野、笠岡など出動した。)
林野にはいちばん多かった。笠岡はしらんのう。


岡山の兄貴と井原の兄貴(実兄でなく義兄。母の兄弟)を呼んだら、二人とも自転車で
来た。
軍靴や着るもん、服やズボン
自転車の前に靴はさげてのう。
あの時分はなんもなかったんじゃけいのう。


復員
(隣村の金浦出身の)経理の軍曹が運んでやる言われて、病院の車でもって帰った。
菓子の袋と米を一俵積んだ。



町からの買い出し
(交換物は)
芋がいちばん多かった。次にナンキン。


金属類供出
(この年(2000年)金属供出とされていた「人見絹江のメダル」が出てきて話題になった。)
役場の裏には積んだままの金属(かね)があった。
あれを処分してええ目をした人がおった(どこの町村でも)。


(昭和22年ごろ、戦後の犯罪がピーク)
なんもなかった。


(ヒロポンや麻薬)
(城見は)関係ない。


失業対策
これゆうもんはなかった。してない。


PTA
父母の会は戦前なかった。
学芸会や参観日のような、個人対応の連絡しかなかった。
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