しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

高知県立高知第二高等女学校~高松農学校

2016年06月10日 | 暮らし


おじ(母の兄)の話


談・2005.9.14


高知では下宿して、(生徒の)寄宿舎のメシを食びょうた。
4~5人、そうゆう先生がいた。

(戦争が激しくなり)
学校の先生だけしょうたんじゃあいけんゆうて、大阪機工ゆうて機械を削る道具の会社へ学徒動員で行った。
モンペのズボンに黒い服を着て。
西淀川区で、女の子が旋盤の大きな会社で働いた。十三まで連れて行った。そこで卒業させた。
そこは空襲を受けるまでおった。

月月火水木金金時代を過ごした。


アメリカがくりゃ高知へ最初に来る。
砂浜で竹やりで突く訓練をしょうた。
竹を斜めにかまえて。(苦笑い)

戦時中に高松農学校に転勤した。下宿していた。
そこで玉音放送を聞いた。

(戦後の学制改革)岡山農業専門学校は農専ようた。
農専は無くなるようたが、岡山に移った。
その跡へ高松農業高校ができた。

はじめ8年いて、次に興陽に行った。

コメント
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