しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「ろーまん(労研饅頭)を買う」話

2016年06月28日 | 昭和11年~15年
母の話・2015.1.1(母はこの年、2月に倒れ、3月に亡くなった)

「こまつや」が(井原)女学校のすぐ前にある。
蒸しパンのようなもんじゃ。
黒い豆がはいっとる。
袋の中へ四つはいっとる。
昼になると「早ぅ買いに行かんとなくなる」
弁当をもってこん人は、みんな買いにいきょうた。

学校の中でも売りょたかもしれん。
ええ味がしょうた。

「ろうけんまんとう」、「ろうけん」「ろーまん」ようた。
5円じゃった。
(井原女)学校の前にも、興譲館の前にもあった。
戦後にもあった。
代(よ)がようなったら無くなった。

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学校に弁当を温める機械がある。
昼前になるといろいろな匂い、(おかずが熱して)くさいかざがしてきょうた。
1年から5年まで、下から1年がいれていた。
下が熱過ぎてにおう。


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井原実業がなかった。

(西江原小を6年で卒業した女子の場合)
井原技芸が多かった。みな歩いて行きょうた。一番奥にあった。向井町にあった。
高等小学校
女学校はお金がかかるので少なかった。6人ほど行った。今でいう特殊学級のような人でも入りょうた。(女学校の同級生は)全部で60人くらいじゃった。

卒業して4~5年して実業ができた。


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青い目をしたお人形

2016年06月28日 | 昭和元年~10年
貧しい日本人が「お人形」を見るのは絵本の中で、という時代が昭和30年ごろまでつづいた。それまでの日本の子供は、町のおもちゃ屋のウインドウで本物の人形を見るのが精いっぱい。
大正の終わりから昭和の始めに、アメリカから「青い目の人形」が贈られた。
野口雨情の歌でも有名な日米親善の人形が全国の学校に配られた。

父や母の時代と重なるので聞いてみたが、両親とも見た事はないという。



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井原市史(資料編)から転記する。

「青い目をしたお人形歓迎会」
昭和2年5月10日 中備時報

後月郡教育会の主催にて、来る11.12日井原小学校付属幼稚園に於いて開催することになった。
お人形の数は二百余もありて、園内に陳列し一大異彩を放つ筈である。

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管理人の思い込みで、贈られたのはすべて小学校と思っていたが
井原では幼稚園、他県では女学校にも配られている。

配布数は、およそ12.000体
岡山県には、238体、うち現存3体。


戦時中は
「青い目をした人形 憎い敵だ 許さんぞ」(毎日新聞)と
児童の前で竹やりで射抜かれ、処分された人形も多い。

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記事明治17年 茂平堤防決壊(宮ノの崎まで浸水)の記事・記録その③

2016年06月28日 | 江戸~明治
「岡山県史」より転記。

1884(明治17)の大津波
8月25日夜半から26日未明にかけて台風が襲来したため起こった災害である。
折からの満潮と重なり、高潮により堤防が決壊し、海水が広範囲にわたり流入し、未曽有の大惨事になったのである。
『山陽新報』は、
小田郡笠岡村は其の災を被る尤も甚だしく、海岸に添える人家80余戸尽く破壊し、港中にある三百余艘及び港外に停泊する者皆市中に打ち上げられ、市中の高処と雖も尽く海水に浸され、中の町筋は市中の中央なれとも、座板より水の高きこと数尺に及べり、人民は家具も何も捨て置て其の身のみ脱れ出て、山上へ我も我もと逃げ登れり
と報じている。



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「福山市史・上下巻」記述なし。

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「倉敷市史」記述なし。

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明治17年 茂平堤防決壊(宮ノの崎まで浸水)の記事・記録その②

2016年06月28日 | 江戸~明治
「寄島町史」より転記。

明治17年8月の高潮。
8月25日の夜、岡山県南部を襲った暴風雨は高潮を伴い激波は堤防を崩し、海岸を越えて陸地に襲いかかり、居宅の流失するものも多く、深夜殊に暴風猛雨の間に襲ったためおびただしい溺死者を出した。「岡山県の歴史」によると県全体では流失戸数2.217戸、死者不明655人、廃荒田畑は2.427町歩で、被害の最も大きかったのは水島灘沿岸であった。

本町では8月25日午前11時頃から空が曇り、豪雨が襲い、耳をつんざく雷も加わり、東から吹きたる暴風に怒涛は堤防を乗り越えた。人々は必死になって防御に努めたので、昼間は幸いに何事もなかったが、夜半になって猛雨が西からきて奔涛激波がついに塩田の堤防数か所を崩し、潮流一時に襲来するに及んでたちまち人家を浸した。老幼男女は悲鳴をあげて避難し、家財は顧みる暇がなかった。
被害は、死者4、負傷8、流家39、破壊家13、破損家194、破損船63、流失船7、・・・・。
「寄島町沿革史」によると、路傍に泣き砂上に伏臥するもの数百名、目も当てられぬ惨状であった。大浦神社の東馬場裏に大船が上がり、駐在所の屋根に小舟が打上げられていた。
・・・・その後、漸次冷気に向かい一層の餞寒を憂え、窮民一同が郡役場へ救いを求めに行こうとしたので、斉藤戸長がこれを制し、郡長あてに伺書を提出した。


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