場所・鹿児島県鹿屋市今坂町 「特攻慰霊塔」
訪問日・2013年8月10日
昭和47年4月から昭和48年3月まで、鹿児島県鹿屋市に住んでいた。
その頃の鹿屋は遠かった。
予行列車に乗って朝、西鹿児島駅に着く。
鹿児島港から船に乗って垂水に行く。
垂水からバスに乗って鹿屋に行く。そうゆう地の果てのような町だった。
たまに鹿屋の飲み屋に行っていた。
鹿屋の飲み屋は若い娘が稀で、たいていが年増だった。
同僚が言うには、
その年増たちは、特攻隊員の出撃前夜に「なぐさみ」の一夜をしていた人だと話していた。
若者に、せめて一度オンナを知ってから死んでもらうという、軍の親心だったと。
鹿屋は当時まだ、特攻兵のにおいが残るような夜だった。
鹿屋は、暗い感じがする町だった。
雑誌「丸」昭和44年11月号 光人社 1969年発行
明日なき頃とわたし TBSニュース制作部長・田英夫
昭和18年9月、東大への合格が決まった喜びの直後の私に「学徒出陣」のニュースが伝えられた。
そして12月、私は学制服の上に日の丸のタスキをかけ、家族や友人に見送られ東京駅をたった。
広島県の大竹海兵団へ入った。
昭和19年の秋のある日の夕方だった。
突然、「予備学生、総員剣道場へ集合」の命令が出た。
そこの空気は異様であった。
紺の第一種軍装に身を包んだ大尉、中尉クラスの教官が、入口から周囲の窓まで警備するかのようにかためていた。
その表情もかたかった。
やがて校長が壇上に立った。
大佐である。
「諸君の中から、特別攻撃隊を志願するものを募る」
一瞬、私の背中に冷たいものが、電気のように走ったのを覚えている。
物音ひとつしなかった。
校長はさらに言葉をつづけた。
「特別攻撃隊の種類は、潜水艦によるもの、特別潜航艇によるもの、魚雷の「回天」、小型艇「震洋」などである。
志願する者は明朝0800までに区隊長に申し出るように。
なお、このことは当然”軍機”に属することであるから、絶対に口にしてはならぬ」
その夜は、誰も眠れなかった。
私はいろいろなことが浮かんでは消えた。
家族の顔、特に母の顔が。
「ここで志願しない奴は”非国民”、”卑怯者”といわれるぞ」
「死ぬのはいやだ。」
さまざまな声が、頭の中をかけめぐった。
私は、志願しなかった。
この第一次の特攻隊員の募集のとき、志願したのは400人中40人前後だった。
そのほとんど全員が死んだ。
それから一か月後、ふたたび特攻隊員が募集された。
私は、今度はすぐに志願した。
どうせいつかは死ぬ。同じことさ。
こうして震洋特別攻撃の艇隊長としてが長崎へ赴任した。
震洋はバックできないのである。
あの当時は”国のために死ぬことは美しいことである”ということを、おおくの国民が心の底からそう思っていた。
特攻隊の場合は、若く尊い命と、純真な心を、あのような方向へ追いやった
指導層の責任こそ、もっとも責められねばならないのは明らかである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/8e/30f8594d54846cf84d487379da68f72d.jpg)
「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行
鹿屋航空隊
鹿屋航空隊は1936年(昭和11)に陸上攻撃機で編成する初めての海軍航空隊で、
南方や上海爆撃などの侵略攻撃基地となり、
また真珠湾攻撃の第一航空艦隊に参加した。
しかし戦況の悪化により1945年1月特別攻撃隊神雷部隊司令部となり、
鹿屋・笠野原・串良・宮崎の飛行場から特攻機が出撃した。
鹿屋には228機が配備され、鹿屋航空隊を発進した特攻隊は70隊445機、兵士828人の特攻最大の犠牲者を出した。
「今日もまた黒潮おどる海洋に 飛びたち行きし友はかえらず」
昭和47年頃の碑には600~700名が記されていた。今は「千有余の特攻隊」と数が大幅に増えている。
(知覧もほぼ倍増している)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/b2/a34475a4121471cd5e0752e6a006a597.jpg)
「日本軍事史」 吉川弘文館 2006年発行
特攻隊
フィリピン戦で、
飛行機に爆弾を積んでの体当り、神風特別攻撃隊を出撃させた。
1944年10月25日、
護衛空母1隻を轟沈、1隻を大破するという戦果が挙がったため陸軍もこれに続いた。
終戦まで陸海軍あわせて6.000人余りが特攻出撃、二度と帰らなかった。
しかし逃げ回る敵艦船に飛行機で体当りするには高度な操縦技量が必要であるにもかかわらず、
技量未熟者を多数攻撃要員としたため、命中率は高くなかった。
よしんば命中したとしても、特攻機搭載の爆弾では十分な破壊力が得られなかった。
本来爆弾は高空からの水平爆撃、
または急降下爆撃によって十分な加速をつけない限り、敵艦の装甲を貫徹できなかった。
事実、戦艦や正規空母などの大型艦は1隻も沈めることができなかった。
志願制を建前としていた特攻隊であったが、
事実上強制されて出撃していった隊員も多く、士気は低下していった。
「カミカゼの真実」須崎勝弥著 光人社 2004年発行
鹿屋基地で、もはや一字も書き遺そうとしなかった。
さよならを言うほど未練がまし男ではない。
飛行場で突然空襲を食らった。
頭上の敵機はグラマンF6ヘルキャット、出撃したら必ず出くわすてごわい相手だ。
あんなのとやったゼロ戦は空中分解するだろう。
敵の出力は2千馬力、
こっちはその半分しかないのに5百㌔爆弾を積んでいる。
空戦を挑むには爆弾を捨てるしかない、捨てたら特攻機でなくなる。
「犬死だけはしたくない」
昭和20年4月29日、33機の爆装ゼロ戦が鹿屋を発進した。
幾重にも張り巡らせた防禦網をかいくぐった一部のカミカゼが、
熾烈な十字砲火を浴びて、あるいは空中に飛散し、あるいは撃墜されて海中に没し、
ときには米艦に突入して爆発することもあったが、
いずれにせよカミカゼは一片の肉も残さないし、一滴の血すら流さなかった。
米軍は4隻の駆逐艦が損傷したと発表した。
訪問日・2013年8月10日
昭和47年4月から昭和48年3月まで、鹿児島県鹿屋市に住んでいた。
その頃の鹿屋は遠かった。
予行列車に乗って朝、西鹿児島駅に着く。
鹿児島港から船に乗って垂水に行く。
垂水からバスに乗って鹿屋に行く。そうゆう地の果てのような町だった。
たまに鹿屋の飲み屋に行っていた。
鹿屋の飲み屋は若い娘が稀で、たいていが年増だった。
同僚が言うには、
その年増たちは、特攻隊員の出撃前夜に「なぐさみ」の一夜をしていた人だと話していた。
若者に、せめて一度オンナを知ってから死んでもらうという、軍の親心だったと。
鹿屋は当時まだ、特攻兵のにおいが残るような夜だった。
鹿屋は、暗い感じがする町だった。
雑誌「丸」昭和44年11月号 光人社 1969年発行
明日なき頃とわたし TBSニュース制作部長・田英夫
昭和18年9月、東大への合格が決まった喜びの直後の私に「学徒出陣」のニュースが伝えられた。
そして12月、私は学制服の上に日の丸のタスキをかけ、家族や友人に見送られ東京駅をたった。
広島県の大竹海兵団へ入った。
昭和19年の秋のある日の夕方だった。
突然、「予備学生、総員剣道場へ集合」の命令が出た。
そこの空気は異様であった。
紺の第一種軍装に身を包んだ大尉、中尉クラスの教官が、入口から周囲の窓まで警備するかのようにかためていた。
その表情もかたかった。
やがて校長が壇上に立った。
大佐である。
「諸君の中から、特別攻撃隊を志願するものを募る」
一瞬、私の背中に冷たいものが、電気のように走ったのを覚えている。
物音ひとつしなかった。
校長はさらに言葉をつづけた。
「特別攻撃隊の種類は、潜水艦によるもの、特別潜航艇によるもの、魚雷の「回天」、小型艇「震洋」などである。
志願する者は明朝0800までに区隊長に申し出るように。
なお、このことは当然”軍機”に属することであるから、絶対に口にしてはならぬ」
その夜は、誰も眠れなかった。
私はいろいろなことが浮かんでは消えた。
家族の顔、特に母の顔が。
「ここで志願しない奴は”非国民”、”卑怯者”といわれるぞ」
「死ぬのはいやだ。」
さまざまな声が、頭の中をかけめぐった。
私は、志願しなかった。
この第一次の特攻隊員の募集のとき、志願したのは400人中40人前後だった。
そのほとんど全員が死んだ。
それから一か月後、ふたたび特攻隊員が募集された。
私は、今度はすぐに志願した。
どうせいつかは死ぬ。同じことさ。
こうして震洋特別攻撃の艇隊長としてが長崎へ赴任した。
震洋はバックできないのである。
あの当時は”国のために死ぬことは美しいことである”ということを、おおくの国民が心の底からそう思っていた。
特攻隊の場合は、若く尊い命と、純真な心を、あのような方向へ追いやった
指導層の責任こそ、もっとも責められねばならないのは明らかである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/8e/30f8594d54846cf84d487379da68f72d.jpg)
「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行
鹿屋航空隊
鹿屋航空隊は1936年(昭和11)に陸上攻撃機で編成する初めての海軍航空隊で、
南方や上海爆撃などの侵略攻撃基地となり、
また真珠湾攻撃の第一航空艦隊に参加した。
しかし戦況の悪化により1945年1月特別攻撃隊神雷部隊司令部となり、
鹿屋・笠野原・串良・宮崎の飛行場から特攻機が出撃した。
鹿屋には228機が配備され、鹿屋航空隊を発進した特攻隊は70隊445機、兵士828人の特攻最大の犠牲者を出した。
「今日もまた黒潮おどる海洋に 飛びたち行きし友はかえらず」
昭和47年頃の碑には600~700名が記されていた。今は「千有余の特攻隊」と数が大幅に増えている。
(知覧もほぼ倍増している)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/b2/a34475a4121471cd5e0752e6a006a597.jpg)
「日本軍事史」 吉川弘文館 2006年発行
特攻隊
フィリピン戦で、
飛行機に爆弾を積んでの体当り、神風特別攻撃隊を出撃させた。
1944年10月25日、
護衛空母1隻を轟沈、1隻を大破するという戦果が挙がったため陸軍もこれに続いた。
終戦まで陸海軍あわせて6.000人余りが特攻出撃、二度と帰らなかった。
しかし逃げ回る敵艦船に飛行機で体当りするには高度な操縦技量が必要であるにもかかわらず、
技量未熟者を多数攻撃要員としたため、命中率は高くなかった。
よしんば命中したとしても、特攻機搭載の爆弾では十分な破壊力が得られなかった。
本来爆弾は高空からの水平爆撃、
または急降下爆撃によって十分な加速をつけない限り、敵艦の装甲を貫徹できなかった。
事実、戦艦や正規空母などの大型艦は1隻も沈めることができなかった。
志願制を建前としていた特攻隊であったが、
事実上強制されて出撃していった隊員も多く、士気は低下していった。
「カミカゼの真実」須崎勝弥著 光人社 2004年発行
鹿屋基地で、もはや一字も書き遺そうとしなかった。
さよならを言うほど未練がまし男ではない。
飛行場で突然空襲を食らった。
頭上の敵機はグラマンF6ヘルキャット、出撃したら必ず出くわすてごわい相手だ。
あんなのとやったゼロ戦は空中分解するだろう。
敵の出力は2千馬力、
こっちはその半分しかないのに5百㌔爆弾を積んでいる。
空戦を挑むには爆弾を捨てるしかない、捨てたら特攻機でなくなる。
「犬死だけはしたくない」
昭和20年4月29日、33機の爆装ゼロ戦が鹿屋を発進した。
幾重にも張り巡らせた防禦網をかいくぐった一部のカミカゼが、
熾烈な十字砲火を浴びて、あるいは空中に飛散し、あるいは撃墜されて海中に没し、
ときには米艦に突入して爆発することもあったが、
いずれにせよカミカゼは一片の肉も残さないし、一滴の血すら流さなかった。
米軍は4隻の駆逐艦が損傷したと発表した。
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